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其の百七十三 五里霧中
しおりを挟むはぁ、はぁ、はぁ……。
濃霧の中を歩くうちに、おもいのほかに自分の呼吸が乱れていることに気がついた藤士郎。時間や距離の感覚が麻痺し方角もわからない。五里霧中とはまさにこのこと。だが足を止めるわけにはいかない。なぜならずっと付きまとっている不穏な気配があるからだ。
藤士郎は内心で焦りを覚えていた。
狂骨を引き離せない。
八卦の陣の中ということで正確な位置まではわからないようだが、それでも油断したらすぐ近くにまできている。
視認はできないけれども、厭な臭いが微かに漂ってくるのでかろうじて判別できる。この臭いがふり払えない。
「たぶん見えてはいないはず。もしも見えていたらもっと真っ直ぐに向かってくるはずだ。何を頼りに奴は動いている?」
音はほとんど立ててない。むしろ向こうの足音の方がやかましい。
匂い、というか汗はけっこうかいた。なにせ村中を走り回ったもので。ただしいまは汗も引いて、ともすれば体が少し冷えているぐらい。濃霧という状況もあって熱はさっきよりもずっと落ち着いている。あとは……はっ!
その時、藤士郎が思い至ったのは自分の呼気。これだけはずっと乱れがち。
「まさかこちらの息を感知しているのか? だとしたら――」
藤士郎は懐から手拭いを出すと、それを顔に巻いて口元を隠す。あとは気分を鎮めてなるべくゆっくり息を吸って吐いて……そうやって落ち着きを取り戻す。
そして再び移動を開始し、しばらく様子をみることにした。
◇
「どうやら読みが当たったらしい。だがこれはこれできついな」
ずっとまとわりついていた狂骨の気配は消えた。近くに奴はいない。
いっそのことじっとして息を殺しやり過ごすべきかとも考えたが、それは止めた。
狂骨はとにかくしつこい。その執念たるや並々ならぬものがある。きっと追い詰められる。
なによりうかつに仕掛けられないのがしんどい。下手に傷つければ狂骨に利するばかりだからだ。狂骨と成った経緯を明らかにして、妄執の元を断たねば反撃できない。
だからいまは逃げの一手しかない。
歯がゆい。頭ではわかっていても自制が揺らぐ。突発的に苛立ちが暴発しそうな瞬間があって、どきりとする。
濃霧の中、警戒しながら歩き続ける。
それが体力と精神をごりごり削ってゆく。おまけに空腹、喉の渇きまで。消耗と疲労にて鈍りがちとなる思考。散漫となりがちな注意力。
いつしか自分との戦いになっていた。
「これが朝まで続くのか……。もつかな?」
つい弱気がかま首をもたげる。
そのたびに「むっ、いかんいかん」と藤士郎は己を鼓舞し、ときに頬をつねったりして自分を保つ。
だがそんな藤士郎の健気な努力を一蹴したのは、運という不確定な代物であった
急激に強まった異臭!
霧の中の邂逅はたまさか。
彷徨っていた両者、その進路が正面にてかち合ってしまう。
出会いがしら、先に動いたのは狂骨。藤士郎はやや意識が朦朧としていたこともあって反応が遅れた。そのせいで無意識のうちに抜いてしまった愛刀の小太刀・鳥丸(からすまる)。その身に染みついた伯天流の剣が仇となり、ついに狂骨に一刀を入れてしまった藤士郎。刎ね飛ばしたのは掴みかかってきた右腕。
ごりっという手応えにて両断されたのは尺骨(しゃっこつ)と橈骨(とうこつ)から成る前腕骨。斬り飛ばされた腕は霧の向こうに消える。
が、ほんのまばたき程度の間に、失せたはずの右腕が元通りになっていた。
新しく生えたとか、切り離されたのが戻ってくっついたとかではない。ぱっとあらわれたのである。しかもそれは明らかに元よりも太くなっており、色味も若干変わっていた。黄色味がかったいかにも古骨であったのが、真新しい新鮮な骨のように。ばかりかその変化がじょじょに全身へと広がっていく。
たった一刀にて狂骨の身が若返っていく。
「しまった!」と藤士郎。
ついにやったなとでも言わんばかりに、かたかたと狂骨が笑った。
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