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其の百五十八 青葉の頃
しおりを挟む十五の頃、熱心に道場に通っていた近藤左馬之助。早くも頭角をあらわし、若輩ながら周囲から一目置かれる存在となっていた。
そのかいあって今度催される田沼邸での御前試合の末席に加わる栄誉を得た。
田沼意次は幕閣にあって世を牽引する時の権力者。つねから文武両道を掲げており、武芸を奨励している。
しかし太平の世で重宝されるのは学問ゆえに、剣一本で身を立てるのはなかなか厳しいのが実情。
けれども江戸中の名立たる道場から名乗りを上げた猛者たちが集う、この御前試合で活躍すれば剣名がおおいに高まるだけでなく、もしも田沼意次のお眼鏡にかなえば栄達の道をも開けるやもしれぬ。
この千載一隅の好機に目の色を変えて臨む参加者たち。
もちろん近藤左馬之助もそのうちのひとり。
とはいえ意気軒昂な若者が望んだのは立身出世ではなくて「強い相手と戦いたい」「そんな相手に勝ちたい」「もっと強くなりたい」といった渇望を満たすことであった。
◇
どんっ!
試合開始の合図となる太鼓が鳴るたびに、ぴりりと周囲の空気が張り詰める。
そして「それまで!」と立ち合い人の声で、ふっと空気が弛緩するも、それは次の試合が始まるまでの、ほんのわずかな間だけ。
静かな熱を帯びたまま、粛々と試合は続いていく。
試合は陣幕の内で行われ、参加者らは自分の名を呼ばれるまでは外で待機。大きな道場の高弟やすでに名の通った剣客、大身の縁者らは屋敷内に控えの間を用意されてあるが、それ以外の者らは屋外で出番を待つ。
けれどもそこは田沼意次主宰の御前試合、筵一枚で寒空の下に放置なんてことはなく、床几に番傘に茶の湯など、れっきとした茶席のような趣きのある場を用意してくれており、過不足なく待てるようにとの配慮がなされている。
近藤左馬之助の所属する一門は外組であった。
おもいおもいに過ごしている外組の者たち。
床几に腰をおろしどっしり構えている者もいれば、あえて立ったままで目を閉じ精神集中している者、落ち着きなくうろうろしている者、同門らとの軽口にて気を紛らわせている者などなど。
左馬之助は周囲をこっそり観察しては「あいつは駄目だ」「こいつは強そうだな」なんぞと内心で勝手な人物評をしては時間を潰していたのだが、そんな中で妙に気になる存在を発見する。
ひょろりとした長身痩躯にてやや猫背。歳の頃は自分と同じぐらいの若者。そんな人物が隅で黙々と体をほぐしている。
にしても随分と体が柔らかい。まるで柳の枝のよう。手足が長い。それすなわち懐深く、間合い広く、ひと息に距離を詰められるということ。頼りなさげな見た目。だが剣を手にした姿を想像し左馬之助は「むむむ」と唸るも、彼が持つ得物に首を傾げることになる。短い。小太刀を模した物であろうが、あんな物で試合をするのであろうか。そんな若者だが付近に連れらしき姿はない。ひとりのようだ。
気になることが多々。でも左馬之助がこの若者を気にした一番の理由は、彼が明らかに周囲から浮いていたから。今日という晴れがましい舞台に臨むにあたって、みんな大なり小なり意気込んでいる。いかに平静を装うとも隠しきれない覇気が滲み出ているもの。それは左馬之助も同じこと。己が内にある猛る心、はやる気持ちを押さえるのがひと苦労。
それがまるでない。
むしろひょうひょうとしている。
いざ大一番を迎えるにあたって、否が応でも高まる緊張感。見えない闘気がせめぎ合う控えの空間にあって、その男のところだけぽっかり穴が開いているかのよう。
この場にあって彼だけが異質であった。
いつしか左馬之助は若者から目が離せなくなっていた。どうにも気になってしようがない。そこでいっそ意を決して声をかけようとするも、その時のことであった。
「伯天流、九坂藤士郎殿」
係の者に名前を呼ばれて長身痩躯の若者が「あっ、はい」と気の抜けた返事にて席を立つ。猫背をいっそう丸めてそそくさと立ち去る姿が、どうにも情けなくおもわず周辺から零れたのは失笑。かくいう左馬之助もちょっと笑ってしまった。彼には悪いが、これによって場が少し和んだのはたしか。
けれどもそれはすぐに緊迫にとって変わられる。
若者が姿を消してからほどなくして陣幕の内から漏れ伝わってきたのは、どよめき。
試合で何かあったらしいと左馬之助が察したところで、外組の控えの場に駆け込んできたのは、こっそり試合を覗きに行っていたどこぞの門弟。
「た、たいへんだ! 士学館の飯島平太郎が負けた」
士学館の飯島平太郎といえば当代隆盛が際立つ新興の流派、鏡新明智流(きょうしんめいちりゅう)の高弟にしてすでに江戸でも名の知れた剣客、本日の御前試合でも注目株であった。
それが無名の若者に敗れたとあって、居合わせた者らはその報せにざわつき浮足立つ。
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