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其の百四十六 菩薩か、夜叉か
しおりを挟む油問屋の松坂屋と美耶に迫る脅威は去った。
しかし彼女にはのんびりしている暇はない。すでに次の戦いが動き出している。
上方との油合戦。まだまだ序盤で劣勢を強いられているが、いずれはこれを覆すべく美耶は精力的に奔走している。
あれほど恐ろしい目にあったばかりだというのに、いやはやなんとも逞しい。
で、晴れてお役御免となった用心棒のふたり。
しかしその献身とまじめな仕事ぶりを評価されて、美耶から「正式に専属の警護役にならない?」と誘われる。
この誘いに応じたのは桑名以蔵にて、九坂藤士郎は首を横に振った。
断わった理由はあまり長期に渡って身柄を拘束されると、道場の方がおろそかになるから。いちおうは伯天流の看板を背負っている身の上なので。
他にも書物問屋の銀花堂の若だんなから「お願いしたい写本の仕事がある」との打診を受けている。つき合いのある方々からも細々とした仕事の依頼が舞い込んでいる。
正直なところ松坂屋に雇われていたほうが実入りはずっといい。しかしこれまでお世話になった方々を袖にして、後ろ足で砂をかけるような不義理はできない。だから藤士郎は「ありがたい申し出なれど」と断わった。
◇
美耶と桑名以蔵に見送られて、松坂屋を辞去した藤士郎と銅鑼。
その足で向かうことにしたのは定廻り同心の近藤宅。左馬之助の見舞いがてら、事の顛末を報告しようと思い立つ。少し遠回りをして知念寺の門前通りにある馴染みの茶屋に立ち寄り、看板娘の笑顔に癒されつつ土産の団子を買い求める。
玄関先で笑顔で出迎えてくれた紗枝さま、その脇には一人娘の知恵の愛らしい姿もある。近藤宅には日常が戻っており、藤士郎もひと安心。
すでに起き上がれるぐらいにも回復していた左馬之助に、藤士郎はかいつまんで事件のあらましを説明する。もちろん銅鑼に関することなど、表沙汰にするとまずい部分は伏せて。なお銅鑼の正体や、飛鳥山での戦いやら一連の怪異について、美耶と桑名以蔵はだんまりを決め込んでいる。彼らはたしかに怪異と対峙した。けれどもそれを声高に叫んだところで詮無きこと。最悪、頭がおかしくなっただの、狐憑きになっただのと世間から後ろ指をさされるのがおち。それがわかっているからこそ、口をつぐむという選択をしたのであろう。
藤士郎の話を聞き終えた左馬之助が「はぁ」と大きく嘆息。
「さすがに下手人が黒狐では捕縛は無理だな。相手が怪異では預かりちがいだ。甲州街道の連続怪死事件は、このまま棚上げでお蔵入りとなるだろう。
にしてもとんでもない話だ。救いがなさすぎる。だがこうなると気になるのが、どうして松坂屋の美耶があれほどまで、執拗につけ狙われたのかということだ」
「そこはわたしもずっと引っかかっていたんだよ。角倉屋の吉次が恨まれるのはわかるんだけど、黒狐と美耶お嬢さんにはまるで接点がなかったんだよねえ」
開け放たれてある障子、庭先よりいい風が流れてくる。日当たりのいい縁側ではでっぷり猫が渋い顔にて、知恵にこねくりまわされるのに耐えている。それを横目に藤士郎と左馬之助が「はて?」とそろって首をひねっていたら、そこにあらわれたのはお茶の用意を整えてきた紗枝さま。
「あらあら、ふたりしてとんだしかめっ面。難しい顔をなさって、いったい何の悪巧みをしていらしたのですか」
「悪巧みなんぞと人聞きの悪いぞ、紗枝。ちとある事件でわからないことがあってだなぁ」
「わからないこと?」
ここで「男の話に口を挟むな。黙っておれ」と邪険にするのも角が立つ。
そこで左馬之助は怪異うんぬんについてはごっそり省き、店や登場人物らの名前もぼやかし、あくまで例え話として事件のあらましを説明する。
すると急に「ほほほ」と笑い出した紗枝さま。
これには藤士郎たちがきょとんとなる。
そんな男たちに紗枝さまはちょっと呆れ顔。
「まったくこれだから殿方は……。そんなの決まっているじゃないですか。自分の大切な男の心を奪った相手憎しに凝り固まっていたからですよ」
人の心はとても移り気。
惚れた腫れたは当座のうち。
そんなことはわかっている。でもわかっていても割り切れるもんじゃない。
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女もまた同じ。けれどもより一層の憎しみの矛先を向けるのは、当人よりも浮気相手の方。移り気を起こした当人よりも、それを引き起こした者こそが憎い。身だけでなく心までもが奪われたことが悔しい、口惜しい。ただの火遊びでも業腹なのに、それが本気になっただなんて、とても許容できることではない。
「女を菩薩とするか、夜叉とするかは殿方次第。せいぜいお気をつけあそばせ」
にこやかにそう言った紗枝さま。
でも目の奥がちっとも笑っていない。
藤士郎と左馬之助はびくり、背筋をしゃんとのばして「「はい」」といい返事。
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