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其の百四十三 甲羅の秘密
しおりを挟む黒狐の女怪に背後から刺された藤士郎。
一瞬、かっとなった。体の内を駆け巡る熱。急激に高まったのち、すーっと潮が引くようにしてその熱が去っていく。
入れ違うようにして押し寄せるのは、凍えるような寒さ。
光が遠ざかっていき、ゆっくりと冷たい闇の底へと沈んでいく。
生命の灯火が消えるとはこういうことか……。
薄れゆく意識の中、藤士郎はぼんやりそんなことを考えていた。
けれども沈むのが不意に止まる。
直後に、どくん!
跳ねたのは心の臓、ぐったりしていたそれが、ふたたび力を取り戻す。ばかりかかつてないほどに激しく高鳴り、もの凄い勢いにて新鮮な血を吐き出す。血は激流となって全身を駆け巡り、すべての停滞を一掃する。
たちまち体に失われていた熱が戻った。だがそれに留まらず、さらなる熱を持つ。
「うがーっ!」
藤士郎はたまらず苦悶の声をあげる。
身の内から焦がされるような感覚。大量の汗がどっと噴き出した。体温がどんどんと上昇しており、体が燃えているかのよう。
子どもの頃に高い熱を出したときよりも、ずっともっと辛い。
なのに不思議と視界は鮮明にて、意識もはっきりしている。ただ体が熱くてたまらない。内側よりどんどんと力が溢れてきてしようがない。
「でも、どうしてこんな……あっ!」
致命傷となる一撃を受けたのに復活した理由。
思い当たることがひとつある。
それは背中に生えていた小さな甲羅。ほんの子どもの手のひらぐらいのもの。河童の得子からもらった妖薬を飲んだら、体調が良くなったかわりにあらわれた。得子は「かさぶたみたいなものだから、しばらく放っておいたら勝手にはがれる」と言っていた。
まぁ、日常生活には支障はなかったもので、気にはしつつもここのところの騒動にかまけて、すっかりその存在を忘れていた。
その甲羅が盾となってくれたのか?
いいや、そうじゃない!
黒狐の鋭い爪は、しっかりと背中に食い込んでいた。それこそ心臓を抉るほどにまで深々と。
なのに自分は死ぬこともなく、こうして立ち上がっている。それも異様な活力を得て。
これらを踏まえて導き出された答えは……。
「怪しげな薬で生えた甲羅にも、しっかり薬効が宿っていたみたいだね。黒狐がそれごと貫いたがゆえに、はずみで体の中に破片が入ったと」
すっぽんの甲羅や鹿の角、獣の竜骨などは薬の原料に使われている。十分にありえること。
いろんな偶然が重なった。口から飲む薬を直接心臓にぶち込んだような形となったがゆえの、いまのこの状況。妙に頭が冴えているのもまた、薬のおかげか。
なんたる奇天烈、狐侍の妖縁奇縁もここに極まれり!
だが僥倖である。ありがたい。これならば局面を打開できるはず。
すっくと復活した藤士郎。若干、背中に痛みはあるものの問題はなさそう。
その視線が彷徨い探すのは黒狐の女怪の姿。
目を凝らし暗闇の彼方を見てみれば、松の枝にかけていた頭巾の布を回収し、奥へと遠ざかっていく女怪の後ろ姿があった。
追いかけようと一歩を踏み出した藤士郎。でもその歩幅がいつもの倍以上もあって驚く。体がとても軽い。まるで羽が生えたようだ。踏み込むとぐんと体が前へと出る。急加速、ほんの三歩ほどで最高速へと達する。
風となり疾駆する藤士郎。たちまち先を行く女怪へと迫る。
これに驚いたのが黒狐の女怪。殺したはずの男が立ち上がったばかりか、猛然と追いかけてきたのだから。それでも狼狽していたのはほんのわずか。すぐさま迎え討たんと爪を研いでの舌なめずり。
黒狐の耳まで裂けた大きな口が、にちゃりと厭らしく笑う。
とたんに地面から姿をあらわしたのは影の腕たち。藤士郎の行く手を遮り捕えんとする。
だが捕まらない!
影の腕を藤士郎の足へとのばしてくるも、虚しく空を掴むばかり。
次々とくり出される影の腕たち。どんどんと数が増えてついには十六本にもなった。
それらが各々まるで意志を持っているかのようにして動く。地を這い、四方八方より追いすがり、ときには宙を飛んでは矢となり襲いかかる。
それでも藤士郎を捕まえられない!
影の腕よりも狐侍の方が速い。捉えきれない。
黒狐を中心にして渦を巻くように駆ける藤士郎。付近の木々の合間を縫うようにして移動しては、迫る影の腕たちを翻弄しつつ、じょじょに黒狐へと近づいていく。
ならばとこれを直接迎え討つべく黒狐自身も動く。
いっきに接近、爪と小太刀がほぼ同時に放たれる。
火花が散りすれ違う両者。続けて二の爪を振るう黒狐の女怪。
これを鞘で打ち払った藤士郎。
一合目の打ち合いは引き分け。
すかさず藤士郎はいったん退く。背後から影の腕がのびていたからである。
合わせて十八もの腕を持つ物の怪……、強い。
いかに退治したものやら。藤士郎は激しく動き回りながらも、冷静に勝ち筋を模索する。
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