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其の百三十八 王子稲荷行
しおりを挟むびょうびょうと風が哭く。
舞い上がる砂塵。
顔をそむけてやり過ごす。向かい風にてこちらの足が鈍る。
見上げると黄金色の残光がみるみる細くなっていた。
東の空の彼方より藍色が世界を浸蝕する。
迫る夕闇。夜が来る。
追いたてられるようにして先を急ぐ一行。
前後に並んで進む駕籠ふたつ。前には足が不自由な桑名以蔵が、うしろには美耶が乗っている。美耶の駕籠を守るようにして並走するのは、九坂藤士郎。
目指すは板橋にある関東稲荷総司の王子稲荷。
藤士郎から、諸々の事情を聞いた美耶の決断は速かった。
「わかりました。みんなを巻き込むわけにはいかないわ。すぐに場所を変えましょう」
だが守りを捨てて考えなしに飛び出したとて、黒狐の餌食にされるだけ。
緊急事態につき田沼の殿さまの伝手を頼ってもよかったのだが、敵は得たいの知れぬ物の怪である。かえって被害が広がりそう。なにより「あの方に大きな借りはつくりたくない」と美耶。いかに同志とてそこはそれ、一線はある。物の怪も恐いが、時の権力者もおっかない。
そこで藤士郎はお馴染みの知念寺の巌然を頼ろうとしたのだが、あいにくと急用にて不在。弟子の堂傑によれば二三日は戻らないという。ならばと芝増上寺の幽海に相談したところ、王子稲荷神社に庇護を求めることを強く勧められた。
幽海いわく。
「その娘さんは高位の稲荷の加護を授かっているようだ。おそらくは先祖の縁と思わられる。しかしそれゆえに仏の加護がちと効きにくい。水と油のようにはじいてしまう。これではせっかくの加護を打ち消しかねん。だが同じ稲荷であれば相性がいい。きっと力を貸してくれるはずだ」
こうして美耶は一時的に王子稲荷神社に避難することにしたのだが、ではどうしてわざわざ逢魔が刻を選んで松坂屋を出立したのかというと、理由はできるだけ他の人を巻き込みたくないという美耶の意向ゆえ。
早朝では木戸が開いてない。一町ごとに設けられてある木戸は、夜四つに閉じられ開くのは朝六つ。当然ながらそれに合わせて民草も動くので、江戸の朝は意外に人出が多いのだ。
では夜更けとなると、これはこれでかえって目立つ。木戸番や夜回りなんぞの目に留まれば、たちまち不審がられて「ちょっとそこの番屋まできてもらおうか」となりかねない。
その点、夕暮れ間近は動くのに都合が良かった。
みな家路を急いでおり気もそぞろ。急速に人の姿が減り、一部の盛り場をのぞき町中は閑散となる。だから少々急いだとて誰も気にしない。
◇
頃合いをみて松坂屋を出た美耶、九坂藤士郎、桑名以蔵の三人連れ。
あらかじめ手配しておいた小舟に飛び乗り、隅田川をずんずん遡る。綾瀬川との合流地点である鐘か渕を横目に、舟の舳先を西へ。荒川へと入り千住大橋を潜りその先へ。左前方に飛鳥山が見えてきたところで舟を岸へと寄せた。このまま王子稲荷の裏手につけてもよかったのだが、そこだと駕籠が拾えない。
桑名以蔵は義足に杖持ち、美耶は大店のお嬢さま、ふたりの足は急ぎには不向き。もたもたしていたら追いつかれかねない。ゆえに途中で駕籠を拾うことにした。
さいわい駕籠はすぐにつかまったもので、代金をはずんで先を急がせる一行。
途中までは順調であった。
けれども急に風が強くなり、びゅうびゅうと。これを正面や横合いから受けて駕籠が暴れる。中の者は揺られて「うわっ」「きゃあ」
威勢がよかった駕籠かきの雲助たちも押さえるのにひと苦労で、とてもまともには進めやしない。
そのせいで王子稲荷の玄関口である飛鳥山を目前にして、一行は失速する。
するとそれに合わるかのようにしてゆらりと動く影ひとつ。
道の先、辻の脇にある松の木陰から姿をあらわしたのは、頭巾姿の女。
先回りされた!
慌てて駕籠を反転させようとした藤士郎。
しかし、背後はすでに塞がれていた。ぞろぞろとあらわれたのは黒い狐の面をつけた男たち。顔は隠されているが見覚えのある道着姿……小木野道場の者たちであった。
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