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其の百三十七 高位分社
しおりを挟む上方対江戸の油合戦。
老中の田沼意次と手を組み「打倒! 上方油」を掲げ執念を燃やす美耶。
だがそちらに集中するあまり、つい自分の身のまわりがおろそかになっていた。
いや、より正しくは、まとわりついてくる羽虫には微塵も興味がなかったと言うべきか。
角倉屋の吉次なんぞは心底どうでもいい。
甲州街道から江戸へと渡って続いた連続怪死事件は寝耳に水、まったく関わりなきこと。
そして小木野道場のことは、面倒なのでつい父庄衛に丸投げしていた。
結果、吉次は何者かに惨殺され、小木野道場は墓穴を掘って自滅する。
残る懸念は自分のことを嗅ぎまわっているという奇妙な女。
当初は上方から探りを入れてきたのかと考えていたが、なにやら様子がおかしい。不穏な気配とでも言おうか、どうにも猫の舌のようなざらりとした厭な感触がする。これまでとは勝手がちがう。女の得体が知れないことを、美耶も薄々ながら肌で感じていた。だからこそ用心をして、ここのところはなるべく外出を控えていたのだが……。
「黒い狐の物の怪ですか……。普段ならばそんな与太話なんぞは一笑に付すところですが、あの近藤さまのお話となれば、そういうわけにもいきませんね」
藤士郎から近藤左馬之助が襲われた時の詳細を聞いて、美耶は柳眉を寄せ嘆息。
「はぁ、どうして次から次へと。こうもやっかいごとが重なるのかしらん? そりゃあ、人に恨まれる覚えは少しあるけど、よりにもよって物の怪に絡まれるだなんて。とんだ迷惑だわ。一度、お払いにでも行くべきかしら」とぶつぶつ。
横でいっしょに話を聞いていた桑名以蔵は、左馬之助が不覚をとったという話に一瞬目を見開きとても驚いたような表情をするも、すぐにいつものひょうひょうとした顔に戻って「そうか」とのみ。
何か思うところがあるようだが、当人が口をつぐんでいる以上は、こちらから詮索するわけにもいかない。藤士郎も気づかないふりをする。
三人で話をしていると、いつのまにやら姿が見えなくなっていたのは、でっぷり猫の銅鑼。
目当てのかすてらを貰って満足したのかとも思ったが、ちと行方が気になった藤士郎は「ちょっと厠へ」と断わって中座する。
◇
女中に尋ねたら、のしのし裏の方に歩いていく黒銀縞を見かけたと言うので、そっちへ向かう。
銅鑼がいたのは屋敷の裏手の奥まったところ。一面が苔むしており、優しい陽射しが降り注ぎ、静謐としている場所。店表の喧騒もここまでは届かない。
そんな場所にある小さな祠の前に銅鑼の姿はあった。
「おや、こんなところに祠があったんだね。お稲荷さんかな?」
商売繁盛を願って敷地内で祀っている店はままある。
だから取り立てて珍しい物ではない。
「たしかにそうだ。だがな、藤士郎。こいつは成りこそはこじんまりとしているが、そんじょそこらの道端や商店に置いてあるのとはわけがちがうぞ。京の伏見稲荷大社から直々に、かなり高位の眷属を分社したもんだ。下手な寺社仏閣よりもずっと格上だぞ。
しかしよくもまぁ、こんなのを遣わしてくれたもんだ。とんだ大盤振る舞いだ。ふーん、なるほどねえ、だから店の中は安全だったのか。しかし……」
奇妙な女もとい黒狐の物の怪。
やつが店の周辺をうろつくばかりで、いっこうに入ってこなかったのは、この祠に祀られた存在がいたから。
だがそれも時間の問題だと、銅鑼は言う。
「祠の力がずいぶんと弱まっていやがる」
「えっ、でも手入れは行き届いているし、きちんと祀っているように見えるけど」
「まぁな。だが間が悪かったようだ」
「間が悪い?」
「あー、言うなれば月の満ち欠けや、女の体調みたいなもんかな。ちょうど力が下り気味のときに、ばんばん悪い気を当てられて、すっかり参っちまっている。じきに上り調子に転じれば、また盛り返すのだろうが」
「それって店の守りが破られるってこと?」
「おそらく、なにせ向こうさんも期限が迫っているからな」
黒狐がとり憑いた死人が死兵となって、なりふり構わず襲ってくる。
襲われる理由がわかれば相応の対策もとれるのだが、そっちは皆目見当がつかない。美耶もまるで身に覚えがないと言っていたし。
だからとてこのまま安穏としていたら、店に押し込まれる。
相手は左馬之助に傷を負わせるほどの手練れ。激しい戦いになる。
そうなればきっと店の奉公人らもただではすむまい。みなを守りながらの戦いは厳しいものとなるは必定。
まずい。思った以上に切迫した状況に追い込まれている。
藤士郎はすぐにきびすを返す。事情を説明し今後のことを相談すべく、急ぎ美耶たちのところへと戻った。
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