狐侍こんこんちき

月芝

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其の百二十九 傷

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「えっ、左馬之助が何者かに襲われただって!」

 寝耳に水であった。
 つい先日、松坂屋で顔を合わせたばかりだというのに。
 警護役として松坂屋に泊まり込んでいる藤士郎のもとへ、そのことを報せてくれたのはでっぷり猫の銅鑼である。今朝方、九坂家の方に報せが届いたとのこと。

「左馬之助のお内儀がおまえのところにわざわざ報せを寄越したということは、ちょっと危ないのかもしれんなぁ」

 銅鑼の言葉に真っ青になった藤士郎は、心配になってすっかり気もそぞろ。こうなってはとても仕事に身が入らない。
 見かねた美耶お嬢さまが「こっちは桑名さまがいますし、私も店の奥でおとなしくしていますから大丈夫。お見舞いに行ってらっしゃい」と言ってくれた。
 その言葉に甘えることにした藤士郎が急ぎ近藤宅へと向かおうとすると、背中にひょいと飛び乗ってきたのはでっぷり猫。

「まんざら知らぬ仲でなし。おれもつれてけ」

 だったら自分の足で走ればいいものを、「それはちとめんどう。家からここまで駆けてきたのに、これ以上は肉球がすり減る」なんぞと言うから、もう!
 しようがないと藤士郎はため息。着物の裾をたくしあげ、毛玉を背負ったまま「それっ」と駆け出した。

  ◇

 近藤宅を訪れた藤士郎。

「九坂さま、よくきて下さいました」

 出迎えてくれた奥方の紗枝さまには、いくぶんやつれ顔。目の下に薄っすらと隈も浮かんでいる。どうやら気丈にも夜通し倒れた夫の看病をしていたらしい。いつもならばいっしょになって元気に挨拶をしてくれる一人娘の知恵の姿はない。まだ舌足らずな幼子。怪我をしていきなり戸板で運ばれてきた父親の姿に相当動揺したらしく、いまは泣きつかれて寝ているとのことであった。可哀そうに。

 左馬之助は自室にて伏せっていた。
 胸元に巻かれたさらしにほんのり血が滲んでいるものの、縫合はすでにすんでおり、傷の深さもたいしたことないという。医者の診たてでは、しばらく養生していればじきにお役目に復帰できるとのこと。
 だがそのわりには、しきりに「黒い狐が……、ぐっ、女が……」なんぞとうんうんとうなされており、いささか寝汗が酷いような。
 傷口が熱を持ったのであろうか、にしてはちょっと妙な感じがする。

「なぜだかいくら呼びかけても目を覚まさないのです。そしてご覧の通り、担ぎ込まれてからずっとこんな調子で」

 夫がずっと苦しんでいるのを見ていることしかできない。沈痛な面持ちの紗枝さま。
 この左馬之助の様子には藤士郎も内心で首をひねる。
 受けた傷の度合いにもよるが、よほど酷い出血と深い傷でもないかぎりは、そうそう気を失うことはない。痛みで逆に寝ていられないのがつねであったからだ。

 手ぬぐい用の桶の水がすっかり温くなっていたもので、それを換えに席を立った紗枝さま。
 藤士郎とふたりきりとなったところで、それまで借りてきた猫のようにおとなしくしていた銅鑼がのそりと動きだす。
 でっぷり猫はおもむろに寝ている左馬之助へと近づくと、へちゃむくれの鼻先をすんすんさせ、言った。

「こいつは駄目だな。医者の領分じゃねえよ。おい、藤士郎、ちょいと知念寺までひとっ走りして、すぐに筋肉達磨を連れてこい」

 筋肉達磨とは巌然和尚のことである。巨漢の坊主、歩く仁王さまとの異名を持ち、健全な精神は逞しい肉体にこそ宿るとの考えにて、お経を読んでる時間よりも肉体を鍛えている時間の方がずっと長いのではと噂の人物。しかし法力は本物にて妖退治で広く知られている名僧である。

「えっ、巌然和尚さまにお出まし願うってことは、もしかして左馬之助の傷って……」
「あぁ、十中八九、妖の仕業だ。にしても、こいつはやっかいなのにやられたな」

 しかめっ面の銅鑼。険しいというよりも、心底厭そうな顔をしている。その正体が伝説の大妖である窮奇であるでっぷり猫にこんな表情をさせるだなんて、いったい……。
 不安になった藤士郎がおずおず訊ねる。

「ねえ、そんなにやっかいな相手なの?」

 すると銅鑼は「はぁ」と聞くだに憂鬱そうな息を吐き「あぁ、とてもやっかいだぞ、こいつは。なにせ女の恨みつらみや情念がべったりだ。それもひとりやふたりじゃねえ。何人ものが混じりあっちまっている。最悪だ」と嘆息した。


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