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其の百二十八 隠密
しおりを挟む美耶の周辺をうろつく奇妙な女。いったい何者であろうか。
近藤左馬之助が思いを巡らせていると、「じつは」と口を開いたのは部屋の隅に控えていた九坂藤士郎。
「つい二日ほど前のこと。たまさか裏木戸のあたりでそれらしい頭巾の女を見かけたもので、声をかけようとしたのだけれども……」
とはいえである。もしも相手にやましい気持ちがあれば、声をかけたところで逃げられるだけのこと。
だから背後からそーっと近づき身柄を押さえるつもりであったのだが、あと少しというところで急におんなの首がぐりんとまわって、こちらを向いた。すぐさま逃亡をはかる素振りをみせる。
だが藤士郎とて伊達に伯天流の看板を背負ってはいない。長身痩躯だが身体能力にはそこそこ自信がある。ましてや相手は女の身。本気でかかれば捕まえるぐらい造作もあるまいと考えた。ゆえにひと息に距離を詰めようとする。
だがしかし、ひらりと翻った女の身が藤士郎ののばした手を容易くかわしたばかりか、気づけば女は早や路地裏を抜け、先の角を曲がろうとしているではないか!
急ぎ女を追う藤士郎。砂利を蹴り上げ本気で駆ける。
なのに、なぜだかいっこうに距離が縮まらない。
からんころんからん……、女の下駄の音は遠ざかるばかり。その背がずんずん小さくなっていく。それもとくに着物の裾をはだけることもなく、楚々とした足どりにもかかわらずである。
当初は相手を女と侮ったせいで出遅れたと考えていた藤士郎も、これには「妙だな」
それでも追うことを諦めなかったのだが、薄暗い細い路地を右へ左へと駆けているうちに、ぱっと飛び出したのは表通り。
通りを行き交う人の流れを前にして、慌てて立ち止まった藤士郎。
そんな藤士郎の耳に聞こえてきたのが「こーん」という狐の鳴き声。
はっとした時にはもう女とおぼしき頭巾頭は彼方にて、ほどなくして人混みの中へと埋没して失せてしまった。
藤士郎が本気になったのにもかかわらず、とり逃がした。
白昼にもかかわらず化かされたかのような状況、その話に「むむむ」と腕組みにて唸る近藤左馬之助。武家社会の世渡りがあまり上手ではない友人だが、実力はそんじょそこらの二本差しよりもずっとある。そんな狐侍を煙に巻くとは、相手の女も尋常ではない。
ゆえに左馬之助は「ひょっとして忍びの者か」と考えるも、すぐにその思いつきを打ち消す。なにせ相手はちっとも忍んでいない。かといって店屋敷に侵入するでもなし。そのくせ己の存在をちらつかせている。いったい何がしたいのやら。
奇妙な女の話の他にも、松坂屋が新たに用心棒を求めて人を集めたところ、その中に賊の一味がふたりも紛れ込んでいたという話にも、たいそう驚かされた近藤左馬之助。
立て続けに変事に見舞われている松坂屋。たいそう気の毒なことである。
とはいえ南町奉行の定廻り同心である彼の現在のお役目は、一連の連続怪死事件について調べること。
なのでいささかうしろ髪を引かれつつも、ここいらで松坂屋を辞去することにした。
◇
近藤左馬之助が外に出ると西日が眩しい。足下にのびた影がずいぶんと長い。すでに陽が傾きつつあった。
かなり松坂屋で話し込んでいたようだ。
今日はもう仕舞いとして、奉行所へと戻ることにする。
しかし妙に気怠い。徒労感もある。ずっと奇怪な話に耳を傾けていたせいであろうか。吉次についてあれこれ知れたのは収獲であったが、それ以上に余計な土産話をたんと持たされたような気がする。
吉次の付きまといと一連の連続怪死事件。
美耶の周辺をうろつく奇妙な女の影。
松坂屋を狙っていたという賊の一味。
そして他にも気になることが……。
義足の用心棒、桑名以蔵と名乗っていた男。
あれの右脚の膝から下を切り落としたのは、誰あろう近藤左馬之助である。
かつて江戸を騒然とさせた抜け荷事件のおり、一味に加担していた凄腕の剣客がいた。群がる捕り方連中を一蹴し、幾重もの囲みを悠々と突破しそうなほどの実力の持ち主。
これを一対一の勝負にて倒し捕縛したのが近藤左馬之助。
男は取り調べにて己の知ることの一切を白状し、その後の捜査におおいに貢献する。その腕前、潔い態度を惜しんだ左馬之助は、お奉行さまに罪一等を減じてくれるように嘆願した。
するとその願いが聞き入れられたのか、男は表向きは死罪に処されたとされるも、以降は奉行所の隠密として働くことを条件に許されることになった。
以来、表と裏、陰と陽、住む世界をたがえた両者は顔を合わすことはなかった。
風の頼りに息災にてお役目に励んでいるとは耳にしていたのだが、そんな男がいまは桑名以蔵と名乗って、松坂屋に入り込んでいる。もちろん上の指示によるものだろう。
水面下にて油問屋の松坂屋を巡って、何かが起きている?
歩きながら思索に耽けていているうちに、気がつけば堀沿いの小道にある稲荷の前を通りかかっていた。周囲に人影はなく、己ひとりがぽつんとうら寂しい。
朱色の鳥居が夕闇に染まり黒々とそびえ立つ。空を渡る鴉が「かぁ」と鳴く。奥へとのびた短い参道、人の気配がしたもので左馬之助がなにげなく視線を向ければ、熱心に祠に手を合わせている頭巾姿の女のうしろ姿があった。
邪魔をするのも悪いので、そっとその場を離れようとした近藤左馬之助。
けれどもほんの数歩ほども進まぬうちに「もし」と声をかけられて、びくり。驚きふり返った彼の前には、さっきまで祠の前にいたはずの女が立っていた。
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