狐侍こんこんちき

月芝

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其の百二十七 奇妙な女

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「おや、狐の鳴き声が……。日中に、こんな町中で珍しいこともあるものだ」

 のんきにそんなことを口にしたのは近藤左馬之助。
 ところがである。
 室内の空気がざわり、すかさず腰をあげたのは警護役のふたり。足が不自由な桑名以蔵は美耶お嬢さまを庇うようにしてうしろへと下げ、九坂藤士郎は廊下に面した障子戸へと張り付き、わずかに開けては隙間より外の様子をうかがう。
 三人ともに表情が険しい。場の雰囲気が一変した。
 事情を知らぬ近藤左馬之助はその変化に戸惑いを隠せない。だが彼らが何かに警戒していることだけはわかったので、もしもの場合にはいつでも助力できるようにとの心構えだけは固めておく。

 高まる緊張感。心なしか室温も少し下がったか。
 店表の賑わいを遠くに聞き流しながら、息を潜める一同。
 あちらとこちら、まるで別の世界の出来事のよう。孤独と寂寥、この部屋だけ世間から切り離されたかのような錯覚を覚える。刻の流れがずいぶんと緩慢だ。やたらとゆっくりに感じられる。
 言い知れぬ不安ばかりがずんずん膨れ、やや息苦しさを覚えた近藤左馬之助が襟元を緩めようとしかけたところで、ふっと重苦しい気配が急に掻き消えた。

 表を見張っていた九坂藤士郎が腰の小太刀・烏丸の柄にかけていた手をはずす。
 桑名以蔵も肩から力を抜き、仕込み杖を下げた。
 ほっと吐息を漏らした美耶が、やや青ざめながら「すみません近藤さま。とんだ醜態を」と頭を下げる。
 謝罪を受け入れた近藤左馬之助、自然と理由を問う形となったところで聞かされたのは、美耶がどうして用心棒を雇っているのかということ。

  ◇

 美耶にしつこく付きまとっては言い寄っていた吉次。
 もちろん美耶の心がわずかにでも動くことはない。
 ゆえにそっぽを向いて放っておけば、じきにのぼせ上がった頭も冷えるだろうと、高をくくっていたのだが……。
 その行動はおさまるどころか日に日に図々しくなる一方。しかもこちらに向けてくる瞳に、なにやら剣呑な狂気じみたものまで宿る始末。

 さすがに身の危険を感じた美耶。外出する際には、物陰に近寄らず、けっしてひとりにならぬよう注意をしていたのだが、お供が女中や丁稚ではちと頼りない。かといって先代からのつき合いがある、小木野道場の連中を頼る気にはとてもなれぬ。
 なぜなら先代は優れた技量の持ち主にして、尊敬できる人格者であったのに対して、現在の道場主である二代目ときたら、お世辞にも褒められた人物ではなかったから。あれは餓狼……、吉次と似たり寄ったりの類。
 下手に借りをつくれば高くつく。うっかり奥へと招き入れたらそのままぱくり。涎を垂らしている狼をそばに置くなんてとんでもない!

 そこで新たに信頼できる用心棒を手配しようとしていた矢先こと。
 吉次が不可解な変死を遂げた。
 どこのどなたの仕業かは知らないけれども、やれ助かった。勝手に片付いてくれたと安堵したのも束の間、ほどなくして松坂屋や美耶の周辺をうろつく新たな影があらわれる。

 お得意先へと遣いに出されていた店の奉公人に「ちょいと」と声をかけては、美耶について根掘り葉掘り訊ねてくる。
 そんなことが二度三度と続けば、いやでも店中で話題になる。
 夕食の席にて「あっ、そういえば今日出先で妙な女に声をかけられた」と小僧が口にしたところで、「私も」「おれも」と似たような話が飛び出したもので、これを訝しんだ番頭が主人の庄衛の耳に入れたことにより、娘の美耶も知るところとなった。

 これにかちんときた美耶。ようやくうっとうしい吉次から解放されたとおもったら、すぐに別口があらわれたのだからたまらない。痛くもない腹を探られるのは業腹だ。
 そこでどんな女なのかと、その正体を探ることにした美耶。さっそく声をかけられた店の者らから直接話を聞いたのだけれども……。

「えっ、よくわからないですって? ちゃんと相手の顔を見たんでしょう。なのにどうして」
「はい、たしかに。頭巾をかぶって口元を少し隠していましたけれども。それがよくよく思い出そうとすると、どうにも記憶がぼやけてはっきりしませんので」

 正面より間近に接して、声も聞き、当たり障りのない範囲にて受け答えも交わした。
 ましてや油問屋に勤める奉公人ともなれば、客商売にて相手の名前や容姿などの特徴を覚えるのは得意とするところ。
 さすがに勤め始めてからまだ日が浅い幼い丁稚ならばともかく、そこそこ経験を積んできているはずの手代までもが同じようなことを口にする。
 それでも何か覚えていることはないのかと問い詰めると、「あっ! そういえば」と思い出したのが「こーん」という狐の鳴き声。女があらわれる前後に耳にしたという。
 奇妙な話にて、このことをたいそう訝しむ美耶。ひょうしにぞくり、うなじが逆立つものを感じて、悪寒に襲われたものである。

 何者かが周辺を探っている。
 松坂屋の身代に目をつけた盗賊の手先、はたまた身代金狙いの人攫いの一味という可能性も。とにもかくにも得体の知れないのがうろついている。
 守りを固めておくのにこしたことはない。そう判断した美耶は父に頼んで以前より話のあった用心棒の手配を進めてもらうことにした。


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