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其の百十 霧雨
しおりを挟む木の上に潜んでいた藤士郎、頃合いを計って宙へと身を躍らせる。
我が身を重石とし、すべての力を切っ先へと集約して狙うのは大百足の眉間。
急所を狙った狐侍の必殺の刺突。
だが寸前に迫る白刃に気がついた大百足が、とっさに首をそらした。けれども完全にはかわしきれず。
小太刀の切っ先が右目をかすめ縦に裂き、勢いのままに口元の牙の一本をも断つ!
断たれた牙が毒液らしきものを滴らせながら、彼方へ飛んだ。
落下途中、刹那の邂逅。
至近距離にてすれ違う狐侍と大百足。
怒りに燃えているのか、大百足の身が熱を帯び瞳が赤く染まる。
「ぎぃしゃあぁぁぁぁぁっ!」
吠えながら大百足の身がうねり、すかさず狐侍へと反撃を試みた。着地直後に硬直しているところへと襲いかかろうとする。
が、そのときのことであった。
地の力にて引きずられ、あとは落ちるばかりであったはずの狐侍の身、それががくんと急制動、かとおもえば、いきなり横滑りを始める。まるで燕が地表近くをひらり、飛ぶときのように弧を描く。
ありえない動きに、大百足の追撃は空振りに終わる。
一方、宙を駆けるようにして動いていた藤士郎、その左腕にしっかりと握られていたのは、三つばかりの蔓が絡み合った代物。たまさか木の上に生えていたこれを狐侍は命綱がわりにして飛び降りていたのである。
振り子のように移動した狐侍。そのまま旋回してぐるり。半立ちとなっている大百足の長身を巻き込んだところで、手放した蔓の端を枝に素早く結ぶ。これにより木の幹に縛られる格好となった大百足、厭うて暴れてじたばた。
それを横目に藤士郎は森の奥へと駆け出した。
相手の動きを封じることには成功したものの、それはほんの一時的なこと。木々を薙ぎ倒すほどの剛力を持つ巨体。あの程度の拘束、すぐに解いてしまうだろう。
調子にのって近づけば、逆に手痛いしっぺ返しを喰らうはず。
そう判断し、急ぎその場を離れることにする。
「銅鑼の言っていたとおり、人間の唾は効果があるみたいだね。けど……」
愛用の小太刀・鳥丸にてひと当たりしてみたが、正直なところ感触は微妙であった。
たしかに斬れはする。傷を負わすことも可能だろう。だがそこから先の展望が皆目見当がつかない。
自分が大百足を倒している図がどうしても思い描けない。
それすなわち「殺れる」という確信も自信もないということ。剣客としてはいささか気弱なれどもしようがない。必勝の念や意地だけで勝てたら誰も苦労はしない。伯天流は他の流派と違って、その辺の機微にとても素直なのだ。出来ることと出来ないことをすぱっと割り切る。
そんな伯天流を骨の髄にまで染み込まされ育てられた藤士郎は、早々に「うーん、これは無理っぽい」との決断を下す。
また逃げた理由は他にもあった。
それは左腕の状態。蔓に掴まって片腕で全体重を支えたばかりか、あんな無茶な動きまでしたのだ。いかに鍛えられていようとも、ただで済むわけがない。
「っ痛。肩の関節ははずれてないみたいだけど、ちょっとぐらぐらしている。少し筋を痛めたか」
大百足との距離を稼ぎつつ、着物で拭った小太刀を鞘に戻す。
藤士郎は左手を開いたり閉じたり、腕の具合を確かめぼそり。
「いちおう力は入る。けど痺れとじんじんした痛みが続いている。込められる力はせいぜい六割といったところか。これはあまり当てにはしない方がいいね」
柄に添えるぐらいならばいいが、直には使えそうにない。
相手は頭部を破壊されても復活するような蟲妖。目と牙の傷もじきに元通りになるのだろう。これでは足し引きにて、割りを喰ったのは自分の方ということになる。とんだ大損。藤士郎は嘆息しつつ、後方をちらり。
ばきばきばき……どぉうん!
木が盛大に倒れる音が夜の森に鳴り響く。
大百足がついに拘束を解いたのだ。そして怒りのままに真っ直ぐにこちらへと向かってくる。
懸命に駆け続ける藤士郎ではあったが、その距離はみるみる縮まるばかり。
このままでは追いつかれる。銅鑼はまだ帰ってきそうにないし、いっそのことどこか手頃な洞でもあれば、そこに身を潜めるか。
藤士郎がそんなことを考えていたら、奇妙なことが起きた。
「おや? 大百足が追ってきていない。いったいどうしたんだろう」
迫る圧、怒気がふつりと薄くなった。どうやら大百足は立ち止まっているらしい。
つい先ほどまで血眼になって追っていたというのに。
藤士郎も立ち止まり怪訝な表情にて相手の動向をうかがう。するとその頬にぽつぽつと当たったのは細かな霧状の水滴。
「雨かしらん」
だったら逃げ隠れするのに都合がいい。なにせ雨は視界を邪魔し、自分の痕跡を消してくれるから。
しかしおかしなことに、枝葉の隙間からのぞく空はあいかわらず晴れたまま、お月さまが浮かんでいる。
晴れているのに雨が降る。まるで狐の嫁入りのような現象。でもここは猫又たちの聖地にしてお膝元、そんなところで祝言をあげる狐たちがいるのかと、空を見上げながら首を傾げる藤士郎。
その時のことであった。
ずきんと目に痛みが走って、藤士郎はおもわず顔を伏せた。
「ぐっ、な、なんだいこれは……。まるで砂埃でも入りこんだような痛みが、目が霞む。それに、げほげほ、なんだか息苦しいよ」
それはただの霧雨なんぞではなかったのである。
大百足が立ち上がって、大空に向けて撒いた毒の霧。広く薄く散布したことにより、毒性こそは低いものの効果はご覧の通り。
半ば視力を奪われ窮地に立たされた狐侍に、大百足が悠然と向かっていく。
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