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其の百七 金木犀の木の下で
しおりを挟むここで刻を少しばかりさかのぼる。
猫嶽での宴が始まり、舞台では趣向を凝らした演舞が披露されていた頃。
やんやと沸く観客たち。その拍手喝采の裏でこっそり会っていたのは、心助としらたま。
どちらも名の知れた親分の子息子女。この地に集っている大勢の猫又たちの中には、顔見知りも多い。だからこうやって面と向かって言葉を交わすには、みなの注意が舞台へと向かっている、この頃合いをおいて他にはない。
◇
夜陰の中、たくさんの橙色の小さな花弁たちが、肩を寄せ合って咲き誇っている。
周辺には甘い香りが漂っていた。
本咲きは長月から神無月にかけて、なのにこの地に生えた木はいささかせっかちのよう。
季節外れの金木犀の木下で。
しばし無言のままでじっと見つめ合うのは、若い猫又の男と女。
胸の高鳴りとは裏腹に重たい沈黙。
耐えかねて先に目をそらしたのは心助であった。
心助はそれきりうつむき黙り込んだまま。
焦れたしらたまが一歩距離を縮める。
「どうしてこっちを見てくれないの? どうして何も言ってくれないの?」
上目遣いにて向けられる女の視線が男を責めていた。
なのに心助がようやく絞り出した言葉は「えっと、その……。よかったじゃねえか。九坂さまなら、何があってもしらたまを守ってくれる。あの御方ならきっと……」というもの。
けれどもその言葉が最後まで発せられることはなかった。「ちがう!」というしらたまの声で中断される。
「ちがう! ちがう! ちがう! そうじゃない! わたしはそんな言葉を聞きたいんじゃない! ねえ、心助さん、それ本気で言ってるの?」
つねにないしらたまの激しい態度。
えらい剣幕にて詰め寄られて心助は「ぐぬっ」と眉根を寄せて拳を固く握る。
しらたまが必死に目で訴えていた。「貴方の本心を聞かせて」と。
心助はついに観念して、ぽつぽつと己の気持ちを吐露する。
「そりゃあ、おれだって嫌だよ。しらたまがおれ以外の誰かの嫁になるのだなんて。だがしらたまの親父さん……五右衛門さんが、よりにもよってうちの親父や猫大師さまの前で大見得を切っちまった。居合わせた姉さん方もそうだよ。おまえだって大勢の手下を従える親分の家の者ならばわかるだろう? それがどういう意味を持つのか」
立場がある。面子がある。吐いた言葉はそうそう戻せない。気軽に「やっぱりやめた。いまのは無し」とはいかない。
それが上に立ち、猫又たちを預かる親分という存在なのだ。
また妖は約定にとても厳しい。人間たちのようにころころと翻意したりはしないし、許されない。それが妖の理でもある。
「ははは、もしもおれたちが一門を預かる家の子じゃなければ、またちがったんだけどなぁ」
しゅんと肩を落とし自嘲する心助。
けれどもしらたまはちがった。目つきが厳しくなったとおもったら、振り上げた手にて、ぴしゃり! いきなり男の頬を打つ。
ぶたれた方はわけがわらず、きょとん。
そんな男を女はきっと睨みつけ。
「心助さんの意気地なし!」
早々に諦めようとしている男に女は怒った。
怒って、怒って、そしてほろりと涙を零す。
頬の上を伝い落ちるひと筋の流れ。
その顔を前にして心助も、はっとする。
臆していた男もようやく気がついたのだ。女が何を待っているのかということを。
いったん目を閉じた心助は大きく息を吸い込んでは吐くをくり返すこと、三度。
ふたたび瞼を開ければ、そこにはいつもの一本気な若者の目が蘇っており、強い光が宿っていた。
覚悟を決めた心助がしらたまに告げる。
「いっしょに逃げてくれるか」と。
それへの返答はない。しらたまはただ男の胸に身を委ねる。
かくして若いふたりは書置きを残し、手に手をとりあっての逃避行へと。
◇
門を通って猫嶽を出立すれば守衛役の者らに見咎められる。他の猫又らの目にもつく。そうなればすぐに追手がかかって、あっという間に連れ戻されてしまうだろう。
だからふたりは結界の綻びから、外へと抜けることにした。
それは大人たちは知らない子どもたちの秘密の抜け穴。幼い頃に遊んだことがあった心助らもその小径のことは知っていた。
小径を通ってまんまと猫嶽の結界から抜け出した心助としらたま。
まずはすぐにかかるであろう追手から逃れるために、できるだけこの地より離れる。
それから落ちつき先を考える。なにぶん急な出立ゆえに、まだ何も決まってはいない。それでも彼らの表情は明るかった。足どりは軽い。夜の森もちっとも恐くない。ふたりが寄り添えば苦は苦でなくなる。だからきっと大丈夫。
でもそんな旅路が早々に頓挫しようとは夢にもおもわなかった。
いつの間にか虫の声が聞こえなくなっていた。
何かに怯えてじっと息を潜めているかのように、しぃんと静かな森の中。
ぞろりぞろりと蠢く気配がする。まるで大きな何かが地を這っているような……。
はっとして、おもわず足を止めた心助としらたま。
しらたまを背に庇うようにして、心助が木々の奥へと目を凝らす。
猫目が光り、夜陰の彼方を見通す。
すると闇の底にて浮かんだのは長大な百足の姿であった。
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