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其の九十四 利根の渡
しおりを挟む乳母の手引きにより、まんまと逃げ出せた治郷は、妻子を連れて出奔した。
最初は上方を目指そうとするも、それではすぐに追手に追いつかれてしまう。そこで奥州にいる知己を頼り、しばらく身を寄せてから今後の身の振り方を考えることにする。
親子三人、肩を寄せ合っての逃避行。
しとしと小雨の降る中、どうにか坂東太郎と呼ばれる利根川の岸まではやってこれた。あとは舟で向こうへと渡るばかり。そうすればようやくひと息つける。
だがその舟で悲劇が起きた。
舟が中ほどまで進んだところで、急に坂東太郎が暴れ出す。
どうやら上流域の方で大雨が降っていたらしく、今頃になってその余波がどっとこちらに押し寄せたよう。
船頭は懸命に抗うも力及ばず。ついに強い横波を受けて舟が転覆し、投げ出された乗客たち。
さなか妻子を庇い、どうにか引っくり返った舟体にしがみついてた治郷。だがこのままでは……。
その時、夫の腕を振りほどいたのは妻のおもと。
「なっ、おもと、いったい何を!」
「あなた、私はかまいませんから、どうか、この子を、彦太郎をお願いします」
夫と子を守るために、みずから坂東太郎にその身を捧げたおもと。その姿はあっという間に波間に呑まれて消えた。
気がついたときには、浅瀬に打ち上げられていた治郷と彦太郎。
母の献身に坂東太郎も感心したのか、父子ともに無事ではあったが、それを喜べるわけもなく。
治郷は消えた妻の名を呼び、さめざめと泣いた。
すると父の嘆きに、子も驚いていっしょに泣いた。
だが我が子の泣き声ではっと我に返った治郷は、のろのろと立ち上がると、近くの民家を目指して歩き出した。
◇
流れ着いたのは奥州側ではなくて、江戸の方。
妻ともども荷も失せて、残るは身と旅の用心として別に分けておいた金子が少々。どうにか濡れた着物は乾かせたが、とてもではないが乳飲み子を抱えて旅を続けられる状態ではない。
治郷は我が子を抱いて重たい足を引きずり、江戸へと戻る決断をするしかなかった。
だがこのまま戻れば、家の者らの手に落ち、彦太郎と引き離されることは明白。家のことしか考えない連中のことだ。どのような目に合わされるものか。
そこで治郷が頼ったのが、妻の幼馴染みで、いまは損料屋の娘婿になっている男のところ。
治郷とおもと、近親者のみのささやかな婚儀のおり、わざわざ顔を出して過分な祝いをしてくれた嘉兵衛ならば、きっと我が子の行く末を託せるはず。
その縋る想いに嘉兵衛は応えた。
じつは嘉兵衛の妻のおきんはあまり丈夫ではなくて、子が成せぬ身体であったのだ。ゆえに嘉兵衛たちは彦太郎を自分たちの子どもとして育てると誓う。
彦太郎を嘉兵衛たちに託した治郷は、その足で実家へと戻った。
そして両親や親族らに向かって白刃を抜き放ち、切っ先を突きつけこう言った。
「いいだろう。黒沼の家は継いでやる。そのかわり、二度と妻子にいらぬちょっかいを出すな。もしも約定をたがえたら、その時は……」
息子のために妻のおもとがその生命を捧げたのならば、父である己はその人生を捧げようとの覚悟。
かくして治郷と彦太郎、父と子はちがう道を歩むことになった。
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