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其の八十八 彦太郎の世界 第五相
しおりを挟む右へ左へと激しく揺れる足場。
ときおり下からもどんっと突き上げられる。
轟々と風が唸りっぱなし。
横合いから叩きつけるかのようにして降る雨。
稲光が暗雲を斬り裂き、明滅する世界。
とてもではないが立ってはいられない。
床に這いつくばってどうにか堪える。
瞼を開けると、そこは船の上であった。
しかも夜の海にて、間断なく押し寄せる大波小波、嵐に翻弄されるばかりという最悪の状況。
「ぎぃにゃぁあぁぁぁーっ!」
雨の向こうから聞こえた絶叫は、先にこの場所に飛び込んだ、でっぷり猫の発したもの。
銅鑼は水に濡れることをあまり好まない。ちょっと臭ってきたから体を洗おうとすれば、なんのかんのと言い訳をしては逃げようとする。おかげで毎度毎度、井戸の端で攻防の一戦を繰り広げるのが、九坂家ではお馴染みの光景となっている。
しかし、よくよく考えてみるとこれは奇妙な話。
猫はあまり水が得意ではない。さりとて銅鑼の正体は窮奇(きゅうき)という大妖の有翼の大虎である。
物知りな銀花堂の若だんなに、茶飲み話にて聞いたところによれば、虎という獣はじめっとした森林の奥に住み、水辺を好むとのこと。
だとすれば銅鑼が水浴びごときで、あれほど手を焼かせる意味がわからない。
やっぱり猫の姿をしているときには、そういう感覚に引っ張られるものであろうか。
ひょっとしたら本来の姿になれば平気なのかも。
「でもそうなると図体が大きくなるんだよねえ。洗うのにとっても難儀しそう。それともやっぱり、翼が濡れるのがいやなのかしらん? でも鴨とかふつうにその辺のお堀にぷかぷか浮かんでいるし。う~ん」
なんぞと藤士郎が現実逃避をしている間にも船上は大騒ぎ。
ただし船乗りらの怒号や悲鳴はすれども、その姿は見えず。かわりに動いているのは影法師ばかり。
顔を打つ雨粒越しによくよく見てみれば、船体や世界そのものも、どこか薄ぼんやりとしている。
まるで目を覚ましてすぐ、視界がにじんで定まらない間のことのよう。
これまた妙ちきりんな場所に放り込まれたもので、藤士郎が困惑していると、ぼきりと不穏な音がすぐそばで聞こえた。
「えっ?」
おもわずふり返った藤士郎が目にしたのは、自分の方へと倒れてくる帆柱の姿。
慌てて逃げ出そうとした藤士郎。しかし雨水と海水でぬめる床のせいで、ずるりと滑る。おぼつかない足下に苦戦しながら、這うような体勢にて手を使い、どうにか窮地を脱したものの、直後にどかん!
ひときわ大きな衝撃により、床一面が大きくたわんで波打つ。
巨大な力のうねりを前にして、人の身では抗いようもなく。ただただ翻弄されるばかりの狐侍。その長身痩躯が何度も跳ね飛び、叩きつけられ、あちらこちらへと転がされるうちに、ついには意識を手放した。
◇
「うぅ、あ、暑い……」
肌が焼けるような感覚にて目を覚ました藤士郎。その身はどこぞの浜辺に打ち上げられていた。
見上げれば雲一つない青空にて、お天道さまがぎらぎら。
足下の砂は陽射しを浴びて、焼いた塩のようになっている。
「どおりで暑いはずだよ。それにしてもひどい目にあった」生乾きの自分の臭いを嗅いで「うっ」と顔をしかめる。
陽気のおかげで濡れ鼠ではなくなっているのは助かるが、海水特有のべたべたした感じと生臭さが、どうにも気になってしようがない。
「……とりあえず腰の烏丸は無事だけど、銅鑼はどうしたんだろう」
古代は大陸の中原にて悪名を轟かせた四凶が一角。よもや嵐の難破船程度ではくたばりはしないであろうが……。
なんぞと考えながら藤士郎が浜辺に沿ってとぼとぼ歩いていると、前方にてぐったりのびている毛塊を見つけた。黒銀毛の縞模様、銅鑼である。
「生きてるかい?」と声をかければ「いっそ殺してくれ」と気弱な返事。
よほど嫌であったようだ。
なんにしてもふたりともにひどいあり様。
どこぞで身を清めねば、とてもではないが耐えられそうにない。
すると都合がいいことに、少し進んだところに小さいながらも河口を見つけた。
この流れを遡れば真水のあるところに行けるはず。
重い足を引きずり、狐侍とでっぷり猫は上流を目指す。
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