狐侍こんこんちき

月芝

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其の八十四 彦太郎の世界 第二相

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 橋を渡った先では、がらりと雰囲気が変わる。
 いいや、そんな言い回しでは生ぬるい。これは、もはや豹変であろう。
 とたんに鮮やかな色味が失せた。世界が陰鬱な鼠色に染まる。
 いまにも降り出しそうなどんより雲。ときおりごろりと響くは遠雷か。
 そのくせ吹く風は乾いており、通りを埃玉が転がっている。
 荒涼かつ殺伐とした光景の中、行き交う人々はみなうつむき、その表情もまた暗い。
 だが何よりも際立っていたのが、そんな人々の身なりである。
 すべてがお武家のもの……、ここにいるのは武士ならびに、それに連なる者ばかり。

 町人と武士。
 川向こうのあちらが陽ならば、こちらは陰。
 ここは白屏風に阿波屋の一人息子である彦太郎が想い描いた世界。当然ながら彼の想いや考え方が強く反映されている。
 どうやら彼の中では、世間はこのように分別されているらしい。

「これはまた……、なんとも極端だよねえ」

 藤士郎は苦笑い。
 江戸は武士が興した町にて、当然ながらお武家の意向が強く働いている。
 とはいえ、それは初めのうちだけのこと。
 なにせ武士と町人とでは数がちがう。正確なところはわからないけれども、ざっとした見積もりでも両者には十倍近くの開きがあるのではなかろうか。よって途中からは多数を占める町人らが中心となって、町づくりが行われるようになってひさしい。
 ゆえに場所によっては、下手に侍風なんぞ吹かそうものならば、たちまち路地裏に連れ込まれて袋叩きの上に身ぐるみを剥がれるなんてこともある。
 しかしこの様子からして、彦太郎はあまりお武家が好きではないようだ。
 阿波屋は武士相手の商いもやっていたはずだけれども、ひょっとしたらそれ絡みにて遺恨でもあるのかもしれない。

「ふん、ちょいと聞きかじっただけで、世間をすべてわかったつもりになっているところが、いかにも阿呆の考えそうなことだ」

 悩める青年に対して、銅鑼はなかなかに辛辣だ。だがでっぷり猫の言っていることは正しい。
 たしかに困った二本差しも多いが、ちゃんとしている方も大勢いる。それをいっしょくたにして嫌うのは、いかにも子どもっぽい考えだと藤士郎もうなづく。

  ◇

 橋のたもとには、人だかり。
 でっぷり猫を抱いた狐侍は、背伸びにてひょいと野次馬の頭越しに覗いてみる。

「きししし、こういう時には、おまえのひょろ長い体も役に立つな」

 なんぞと意地悪をいう銅鑼は丸っと無視して、藤士郎が目を向けてみれば立て札があった。
 その根元には杭が打ち込まれており、縄で繋がれた男女の姿がある。罪人の着る浅黄色のお仕着せに手鎖まで。かわいそうに、ろくに水も与えられていないのか、唇がすっかり乾いてひび割れている。ぐったり憔悴しきっており、うなだれてへたり込んでいる。

 立て札によれば、このふたりは姦通の罪を犯したらしい。
 江戸には不正に情を通じることを厳しく戒める法がある。
 とはいえ、実際に適用されることは非常に稀だ。
 なにせとんだ醜聞にて、家や縁者にも飛び火するから、たいていは話し合いにてこっそり裏で片付ける。
 武家絡みならば家同士が、町人の場合は当人同士にて、長屋住まいならば大家が仲介の労をとることもあり、時に町名主のところに持ち込まれて差配することも。
 良くも悪くも、しょせんは男と女のこと。
 法や理性だけでどうにかなるのならば、世の中からとっくに不義密通なんぞは消え失せている。それが無理だからこそ、知恵を絞って対処するのがつね。

 だというのに、こうまでして公にして裁く。
 見せしめのつもりか、はたまた恨みつらみゆえか。
 どちらにしろ正義の皮をかぶった鬱憤晴らしみたいなもの。
 見ていてあまり気持ちのいいものじゃない。
 藤士郎は早々にその場をあとにした。

  ◇

 侍だらけの町は、とにかく陰気にて息苦しい。
 しかも方々で侍同士の諍いが起きており、たまさか通りすがりにて、いきなり抜刀騒ぎが起きたときには、さすがに藤士郎も、ぎょ!
 巻き込まれてはかなわないので、すたこら逃げ出す。
 えっ、いつぞやみたいに物騒な喧嘩を止めないのかって?
 止めないよ。だって見ず知らずの赤の他人だもの。知り合いが絡んでいるのならばともかく、何でもかんでも首を突っ込んでいたらきりがない。それにどうにかするのはお役人らの仕事。

 怒号と剣戟が聞こえなくなるところまで逃げてから、ようやくひと息ついた藤士郎。
 気づけば、そろそろ町並みが途切れようとしている。はや町のはずれに差し掛かろうとしていた。

「やれやれ、ようやくしまいか。降り出す前に抜けられそうでよかったよ。しかしここはまるで武士の悪いところばかりをあげつらって、寄せ集めたかのような場所だねえ」

 いちおう自分も士分である藤士郎は心中複雑である。
 あと、銅鑼が重たい。いい加減に腕が痺れてきた。
 というわけででっぷり猫を地面に降ろし、藤士郎が歩き出すと、ぶつぶつ文句を言いながら銅鑼もこれに続く。
 そして町を出ると、またもや景色が一変する。


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