狐侍こんこんちき

月芝

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其の八十三 彦太郎の世界 第一相

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 言われるままに、白屏風を前にして正座をする藤士郎。
 背後からは語気強く律動の激しい読経の声。汗だくとなりながら一心不乱に経を読んでいるのは巌然和尚。この肌にひりつくような感覚は、巌然さまが発する気迫であろうか。
 異様な緊張感の中、目には見えない何かが、どんどんと膨れ上がっていく。
 空気がより濃密になっていく。
 それが最高潮へと達したときのことであった。

 いきなり、どんっ!

 背中に強い衝撃を受けた藤士郎。
 えっ、まさかの足蹴り? 屏風の中へと送り出すとは聞かされていたが、よもやこんな荒っぽい方法だったとは。
 もの凄い力で蹴飛ばされて「わっ」
 たまらず頭から倒れ込んだ藤士郎、そのまま白屏風に顔からぶつかりそうになったもので、あわてて腕をかざすも手応えはなし。
 狐侍の身体はするりと屏風の中へと。

  ◇

 天地がぐるぅりぐるぅり。
 自分がどこを向いているのかもわからない。
 まるでしたたかに酩酊しているかのような浮遊感。それでいてちっとも気持ち悪くはない。
 なんとも奇妙な感覚に揺られるうちに、はっと気がつけば往来のど真ん中にて大の字になって寝転がっていた藤士郎。
 頭がややぼんやりしている。まるで寝起きのよう。
 藤士郎はむくりと立ちあがり、着物についた土埃を払ってから、周囲をきょろきょろ。

「えーと、ここは……江戸の町だよねえ。ひょっとして全部夢だったのかしらん」

 それなりに意を決して飛び込んでみれば、待っていたのはよく見知った町並み。
 首をかしげる藤士郎。夢おちを疑う。
 すると「ちがうぞ、和尚の術はちゃんと成功した。ここは白屏風の中だ」と足下で声がする。黒銀毛の虎柄がごろにゃん。でっぷり猫の銅鑼であった。

「おや、結局、銅鑼もついてきたのかい?」
「まあな。面白そうだし、退屈しのぎに付き合ってやることにした」
「ほうほう、それはまた心強いこって」

 ふだんはただの食い意地の張った猫。しかし銅鑼の正体は遥か古の時代に大陸の中原にて、おおいに悪名を馳せた四凶が一角「窮奇(きゅうき)」という大妖。
 正義を嘲笑い、誠実を踏みにじり、悪を尊ぶも、わずかにでも意に添わねばたちまちへそを曲げてそれを蹂躙する。唯我独尊の化け物……。
 と伝わっている背に翼を持った巨大な黒銀毛の虎。
 それがいかなる経緯にて、九坂家の居候に成り下がったのやら。
 藤士郎とてずっと気にはなっているものの、なんとなく聞きそびれたままに、いまへと至る。

「ふんっ、感謝は言葉より物で示せ。とっとと家出息子を連れ戻すぞ。そして帰りにおみつのところで団子を土産に買うのだ」
「はいはい。しかし本当に銅鑼はあそこの団子が好きだよねえ」

 いかなるときも銅鑼はぶれない。食欲に忠実な相棒に藤士郎は苦笑い。伝説の大妖、案外、江戸の甘味が気に入っただけなのかもしれないと、ふと思った。

  ◇

 お天道さまが燦々。
 雲一つない抜けるような青空。
 とってもいい陽気。
 なのにでっぷり猫ときたら、歩くのがだるいというので、これを抱いて歩くことになった狐侍。

 見た目は馴れ親しんだ江戸の町。ただし人通りはまばら。
 しばらく散策して気づいたのが、二本差しの姿がまったく見当たらないこと。
 視界の中に牢人者のひとりもいやしない。これは江戸ではかなり奇異なことである。いや、はっきり言って変だ。
 藤士郎はいったん足を止めて、試しに最寄りのお店の暖簾を潜ってみる。
 しかし中は無人。「もし、もし」と奥に声をかけても返事はなし。それどころか屋内の空気がどこか寒々しくて、人の住む家特有の熱がまるで感じられない。
 虚ろのような雰囲気に、ぶるると肩を振るわせた藤士郎は、そそくさと店をあとにする。

 そのまま大通りを北へ北へと進んでいく。
 じきに橋が見えてきた。立派な橋だ。
 永代橋の界隈に似ているけれども、周囲の軒並みが違う。
 そして橋も半ばまで渡ったとたんに、空模様が急にどんよりとなって、景色も一変したもので、藤士郎は思わず立ち止まった。


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