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其の八十二 無我の明鏡
しおりを挟む白屏風の中へと姿を消した彦太郎。
当然ながら阿波屋は上を下への大騒ぎとなる。
一人息子が行方不明となり、もとから虚弱な母おきんは「う~ん」と寝込んでしまった。
ことがことなだけに番屋に駆け込むわけにもいかず……。
困り果てた嘉兵衛は伝手を頼って、芝増上寺の高僧で博識な幽海へと泣きついた。
だが持ち込まれた白屏風を一瞥するなり、幽海は「むう」と唸って表情を曇らせる。
「これは無我の明鏡か。またぞろ難儀な代物に囚われたものよ」
無我とは、無心、我意がないこと。
この世には永遠不変は存在せず。すなわち実体は仮初の衣に過ぎず、それらへの執着を捨て、すべての衣を脱ぎ捨てた先にこそ、真の安寧、極楽浄土は広がっている。
明鏡とは、文字通りの意味にてよく映る鏡のこと。
一切の誇張も歪曲もなく、美しい物も醜い物も、高貴な者も卑しい者も、世の万物のありのままの姿を映し出す。
無垢なる白屏風には、何も描かれていない。
それゆえに見る者次第で、好きな景色なり物なりを自由自在に夢想できる。
子どもの頃に母の背におぶられて見た夕焼け空を懐かしめば、その景色が浮かび上がる。
会いたい、愛しい相手を思い描けば、その艶やかな姿絵があらわれる。
殺したいほどに憎い仇を考えながらきっとにらめば、その者がにやり不敵な笑み。
静かな水面をのぞき込めば、そこには自分の姿が映っている。
人の願望や強い想い、あるいは迷い……。
それらを反映するがゆえの、明鏡。
とはいえだ。しょせんは空想の産物。頭の中だけでの出来事である。
夢や幻は泡沫と同じ。あっというまにはじけて消えてしまうだけのこと。
だが実際に彦太郎は、彼自身が思い描いた景色の中に囚われてしまった。
このことからして、これがただの屏風ではないことは明々白々。
「年経て化けたか……。おそらくは付喪神の一種であろうが、やっかいなのが当の屏風に自我がまるで芽生えていないこと。心を伴わず体だけが成っておる。何も描かれなかったがゆえの弊害であろうが、これでは赤子同然。仏の道を説いて諫めることもままならぬ」
自我が芽生えていない状態であるがゆえに、幽海はこれを無我と称す。
幽海には兄弟弟子である巌然ほどの卓越した法力はない。
彼の武器は蓄えた膨大な知識と言葉。説法により怪異を鎮めるのを得意としている。だが、それゆえにこの白屏風とはあまりにも相性が悪すぎる。
さすがに博識の高僧も、赤子相手では説法もへったくれもない。
ひとしきり話を聞き、とっくり屏風を検分した幽海は「これはいささか拙僧の手に余る」と正直なところを吐露する。
見放されたと思った嘉兵衛は「そんな、じゃあ、彦太郎は……」と呆然としかけるも、次の幽海の言葉に一縷の望みをかけることに。
「たしかに拙僧の手には負えぬが、心当たりがなくもない。どれ、ちょうどいい。先日の借りを返してもらうとするか。嘉兵衛殿、急ぎ一筆したためるがゆえに、しばし待たれよ」
◇
こうして芝増上寺を経て知念寺にまでやってきた白屏風。
実物を前にしている、藤士郎と銅鑼と巌然和尚。
でっぷり猫の銅鑼が屏風をしげしげ眺めつつ。
「しかし無我の明鏡とはな。さすがは芝の白澤、幽海殿もうまいこという」
白澤(はくたく)とは、万物の知識に精通するという神獣のこと。
それに例えるほどに、銅鑼は幽海さまのことを買っているらしい。
するとこれに「くくく」と笑ったのは巌然和尚。歩く仁王との異名を持つ巨漢の坊主頭が肩を震わし「芝の白澤とな? そいつは言い得て妙だ。よし、今度からそう呼んで、兄弟子をおちょくってやろう」なんぞと意地の悪いことを言う。
真理の探求者ほど、己が矮小さをよくわきまえている。だからやたらと持ち上げ褒めそやされると、かえって顔をしかめるもの。おだてられて増長するのは空け者(うつけもの)だけだ。
「幽海さまが嫌がるのがわかっているのに、なんて大人げのない……」
呆れる藤士郎は、かまわず話を本筋に戻す。
「それで巌然さま、呼ばれたから来ましたけど、私に何をさせるおつもりなのでしょうか?」
「うむ。じつはな」
白屏風に自我を持たせることは、さほど難しいことではない。
なんてことはない。屏風に絵を描いてやればいい。
それで無我は姿形を得て無我でなくなる。
あとは道理をこんこんと説いて、悪さをしないようにさせるだけのこと。
ただしそのためには、まず屏風の中に囚われた彦太郎を連れ戻す必要がある。
「えっ! まさか」
「そのまさかだ、藤士郎。あいにくとわしには外と内を繋ぐ役割りあるのでな。では、頼んだぞ」
「そんなぁ……」
得体の知れない屏風の中に潜れとか、無茶ぶりにもほどがある!
狐侍は軽く眩暈を覚えた。
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