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其の八十一 白屏風
しおりを挟む知念寺を訪れた藤士郎を待っていたのは、奇妙な屏風。
「これは雪景色……ではありませんよねえ」
首を傾げる藤士郎に、巌然さまは「あぁ、それっぽく見えるが、こいつはただの無地だ」と言った。
何も描かれていない白屏風。
紙の表面がやや波打ち黄ばんでいることからして、相応の年月を経ている品ということは素人目にもわかる。
ではこれがどうしてやっかいのもとになっているのかというと……。
◇
阿波屋という損料屋がある。
損料屋とは借り賃をとって衣服や夜具、器物などを貸すお店のこと。
めでたい席や、季節の催しごとのおりには必要だけれども、ふだんは用がない道具類は存外多い。けれども庶民の暮らし向きでは、それらをすべて揃えていたのでは、たちまち立ち行かなくなる。
そこで必要な時に必要な品を銭を払って借りる。
ゆえに損料屋は庶民たちにとっては強い味方。
それはお武家にとっても同じ。下級武士や地方から江戸に出てきている者にとっては、いちから買い揃えるよりもよほど安くすむので、とても重宝がられている。ばかりか台所事情が苦しい中堅どころのお武家さまも、こっそり贔屓にしているのは公然の秘密。
阿波屋の現在の主人嘉兵衛は苦労人のやり手。
丁稚奉公からこつこつ勤めあげ、ついには主人一家の信頼を得て、婿養子の座を射止めた。そのときにはまだ庶民向けのお店がひとつだけであったのを、お武家さま用にとさらにもうひと店増やし、これを繁盛させることに成功する。
とはいえ寄る年波には勝てぬし、そろそろ跡目を息子に譲りたいと考えているのだが、その肝心の息子がしゃんとせぬのが悩みの種。
阿波屋の跡取り息子、名を彦太郎という。
子どもの時分には、父譲りの真面目な気質と、生来の利発さが周辺にも知れ渡っていたもの。だがどうしたことか、十一歳を過ぎた頃から急に雲行きが怪しくなった。
名主やお店仲間の倅どもとつるんでは、方々を遊び歩くようになり、家にいるときはろくに家業の手伝いもせずに、自室にてぼんやりごろごろ過ごすばかり。
そのくせ妙に機転が利くもので、父親が「どれ、がつんと説教のひとつでも垂れてやるか」と乗り込めば、いつの間にやら消えている。
いっそのこと「勘当だっ!」と怒鳴れたら楽なのだが、家を追い出すほどの放蕩ぶりでなし。
しょっちゅう小遣いをせびるのは情けないものの、身体があまり丈夫ではない母おきんが寝込んだと知れば、寒空の下、わざわざ江戸はずれにある寺まで足を運び、回復祈願とご利益があるという御守りを買ってくる。
お店の者の具合が悪いのを目敏く見つければ、薬をこっそり差し入れたり、まだ幼い丁稚らに菓子を与えたり、通りすがりにさらりと帳簿の間違いを指摘し、番頭を助けたことなんぞもあった。
だから両親および店の者らは、「ひょっとしたら彦太郎は、わざとぼんくらを演じているのでは?」との疑惑を抱いている。
でもそうなると今度は、どうしてそのようなまねをしているのかが、とんとわからない。
さて、そんな彦太郎がここのところ妙におとなしい。長雨でもないのに自室に籠っている。
外をふらふらされるのも困るが、こうなったらなったで安心するどころか、逆になにやら心配になってくるのが親心。
気になった嘉兵衛は店の小僧に「ちょいとこっそり様子を見てきておくれ」と頼んだ。
そわそわしながら嘉兵衛が待っていると、じきに戻ってきた小僧は奇妙なことを口にする。
「若だんな、じっと屏風とにらめっこをしています」
それも何も描かれていない白屏風だと聞いて、嘉兵衛はますます困惑する。
屏風は数日前に行った蔵の整理のさいに、奥にて埃をかぶっていたのを発見された品。
開いてみれば中は真っ白。なんとも奇妙な屏風。居合わせた者らは「なんじゃこりゃ?」と首を傾げることになる。
すると現場の差配をしていた古株の者が「あっ!」と思い出したのが、その奇妙な屏風の由来であった。
時は先代の頃にまで遡る。
さる旗本のお家が諸事情により断絶するにあたって、屋敷を引き払うことになった。俳句の会を通じて懇意にしていた縁もあり、残った家財道具を引き取ってもらえぬかという打診を受けた阿波屋。
とはいっても貴重な宝物の類はとっくに選り分けられたあと。
残るのは大半ががらくたのようなものばかり。
それでもいろいろと使い道はあるもので、まとめて引き取ることにしたのだが、その中に混じっていたのが例の白屏風。
なんでも屋敷の主人の祖父が絵を嗜んでいたそうで、いずれは大作に挑もうと買ったはいいものの、その願いを叶える前にぽっくり逝ったそうで、そのまま忘れられて放置されていたという。
先代の阿波屋の主人は「まぁ、枠や丁番の指し物の細工もしっかりしているし、使われている紙も上等だ。これならすぐに欲しがる者があらわれるだろうさ」と安易にそう考えたが、日々の忙しさにかまけるうちに、すっかりその存在を忘れてしまっていたのである。
代を跨いで蔵の中にて眠っていた白屏風。
なぜかこれを気に入ったのが彦太郎。「おや、こいつは面白い。ちょいと借りるよ」と言って、そのまま持って行ってしまった。
その話は現在の主人である嘉兵衛の耳にも届いており、「値打ち物じゃないから好きにさせておき」と放っておいたのだが……。
何やら息子の様子がおかしい。
妙な胸騒ぎを覚えた嘉兵衛は、小僧を伴ってすぐに彦太郎の部屋へと向かった。
そして声もかけずにいきなり襖を開けるなり目にしたのは、半ばまで白屏風の中へと吸い込まれている彦太郎の姿。
あわてて駆け寄り、引き戻そうとするも間に合わず。
ひとり息子の姿は父の目の前で忽然と消えてしまい、それきりとなった。
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