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其の七十七 実らずの恋 後編
しおりを挟む師匠と弟子という親密な形にて後継を育成するがゆえに、職人同士の縦横の繋がりはとても強い。
この大江戸八百八町、それに付随して数多いる様々な職人たち。広く見えた職人の世界は、じつにはさほどでもなかった。
醜聞はあっという間に津々浦々へと浸透してしまう。性質が悪いことに人の口を経て伝わるごとに、いらぬ尾ひれや憶測がくっついては、事実が捻じ曲げられていき、嘘が真実へとすり替わる。
そのせいであろう。理由はどうあれ仲間内で刃傷沙汰を起こし放逐された伊之助を、迎え入れてくれるところはどこにもなかった。
ならばとっとと江戸に見切りをつけて、上方にでも向かえばよかったのだが、それが出来ない理由が伊之助にはある。
将来を言い交わしたとやを置いてはどこにも行けない。
いっそのこと、とやと伊之助、ふたり手に手を取り合って……というのも難しい。
ひとつには銭がない。ふたつには相手が名の知れた町名主のひとり娘であったから。
まんまと連れ出せたとて、旅慣れぬ上に女連れの逃避行。
すぐに追手に連れ戻されてしまうだろう。
だからこそ伊之助は一人前になったら、必ずとやを迎えに行くつもりであったというのに……。
ままならぬ我が身。
失われた将来への展望。
不甲斐ない自分に憤り、狭量で酷薄な世間にも腹を立て、そうやって足踏みをしている間にも、伝え聞こえてくるとやの縁談話に、不安と苛立ちばかりが募る。次第に焦燥に心が蝕まれていく。
八方塞がりの状況へと追い込まれた伊之助は、誰にも相談できずひとり悶々と過ごすうちに、気がつけばとやに会いに行っていた。
一方のとやもまたずっと心細くあった。
当人の意志なんぞはお構いなしに縁談話を進めようとする両親。
周囲の誰もが「めでたい」と言ってくれるけど、伊之助が好きなとやにとってはありがた迷惑以外の何物でもない。そんな時にどこぞより聞こえてきたのが、伊之助が弟子入り先から放逐されたという話。
このまま伊之助がいなくなってしまうのでは……。
不安に襲われ、とやはこっそり枕を濡らす日々。
ふたりは久しぶりに再会し、抱き合いながら自分たちの境遇にさめざめと泣く。
ひとしきり泣いたのち、とやは思いつめた表情で伊之助に言った。
「父は駄目です。私の話なんてちっとも聞いてくれません。母は薄々察しているようですが、やはり頼りにはなりません。このままでは廻船問屋へ嫁に行かされてしまいます。でも私は嫌です。ですから今宵、私をあなたの物にしてください」
伊之助に自分を抱けと迫るとや。
これはけっして心変わりすることがないという誓いの証であり、ひとつの賭けでもある。
もしも腹に伊之助の子が宿れば、廻船問屋への嫁入り話は頓挫するはず。周囲からはやんやと責められるであろうが、自分はこれにきっと耐えてみせる。だからその間に、なんとか目途なり算段なりをつけて、迎えに来てほしいと。
涙ながらに懇願された伊之助は、とやの内にこれほどの激しい情念が潜んでいることを初めて知ってやや戸惑う。しかしそれもほんの寸の間のこと。これほどまでに自分に惚れてくれている女の心意気を知って歓喜した伊之助。
かくして体を重ねたふたり。
すると不憫なふたりに天も同情したのか。
一夜の契りにて、とやは懐妊した。
◇
とやが目論んだ通り、廻船問屋との話は立ち消えとなった。ばかりか数多あった縁談話もまるで潮が引くようにして無くなった。
だからいかに父の源右衛門から怒鳴られようとも、内心ではしてやったりとほくそ笑んでいた。
でも、ここで予想外なことが起きて、余裕はたちまち消し飛んでしまう。
身重のとやを、腹の子ごと引き受けてもいいという者があらわれたのだ。
相手は道端の古着売りから一代でお店を構えた男。商いに夢中になるうちに、早や四十路を前にしていた。暮らし向きに余裕ができてきたところで、ふと自分の周囲が寂しいことに気がつく。そこでどこぞにいい人がいないか仲人に頼んでいたところで、白羽の矢が立ったのがとやであった。
「せっかく生まれてくるのに父なし子では気の毒だ。それにいちいち種を仕込まなくていいなんて、かえって手間がはぶけてちょうどいい」
なんぞとうそぶく成り上がり者。
どこまでが本心なのかはわからない。だが傷物となった娘を引き取ってくれると言われて、連源右衛門の気持ちは大きく動いた。周囲も「いい男じゃないか」と相手を褒めそやす。
これにとやは「よけいなことを。どうして私たちを放っておいてくれないの」と苦虫を噛みつぶす。
◇
新たな誓いを胸に一念発起した伊之助。
だが当人の意気込みとは裏腹に、彼を取り巻く状況はなんら変わらず。いいや、時を経るごとにゆっくりとだが着実に悪化すらしていた。
焦る伊之助。
そんな彼に声をかけてきたのが、とある男。
「兄さん、若いのにいい腕をしているんだってなぁ? ちょいとうちの仕事を手伝ってみないかい」
男より提示された報酬の額に目を見開く伊之助。
伊之助は浮かれた。初めて自分の価値を他人に認められたと思ったからだ。
よもやその男が依頼人から大枚を貰っては、いろんな情報を捏造し世に放つよみうりの仕切り屋とは夢にも思わず。
頼まれるままにずるずると木版を彫るうちに、気がつけば伊之助はどっぷり裏稼業に染まっていた。
◇
ここまで自分語りをした伊之助が、くしゃりと顔を歪めて泣き笑い。
「しかしよりにもよって自分が彫ったよみうりで、惚れた女と腹の子を死なせちまうんだから、やっぱり悪いことは出来ねえよなぁ」
幽霊星のよみうり。
一枚目は、どこぞの団子屋に頼まれて作ったもの。
二枚目は、とやへの哀悼の意を込め、これまでの稼ぎを注ぎ込んで自前にて。
そしてたったいま彫りあがったばかりの三枚目。
そこに描かれてあるのは、己の犯した罪の告白と噂を喰い物にする裏稼業の全貌であった。
伊之助はすべてをつまびらかにすることで、騒動に終止符を打つつもりのようだ。
これが彼なりのけじめのつけ方。
並々ならぬ覚悟を前にして、藤士郎にはもはやかける言葉もない。
だからおとなしく退散しようとするも、その時になって狐侍はようやく気がつく。
いつの間にやら、あれほどまでにやかましかった虫の声が聞こえなくなっていることに……。
藤士郎がはっとして腰の小太刀に手をかけるのと同時に、びぃんと響いたのは弓弦の音。
障子を突き抜け飛来した一本の矢。行燈に当たりこれを押し倒す。ひょうしに、ふっ、明かりがかき消え世界が暗転する。
たちまち屋内へと踏み込んでくる複数の気配。
ぞわり、闇の向こうからいくつもの殺意が湧いた。
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