狐侍こんこんちき

月芝

文字の大きさ
上 下
75 / 483

其の七十五 武蔵野ヶ原の餓鬼

しおりを挟む
 
 到着したときにはすでに陽がとっぷりと暮れていた。
 空には大きな月が浮かんでいる。
 中山道を西へ。着いたところは江戸のはずれにある武蔵野。
 見渡す限りの原っぱが広がっている。そよ風により起こるさざ波、月光を受けて輝く様はまるで白銀の海のよう。
 きれいな景色だ。秋ともなれば一面がすすきに覆われて、さぞや風光明媚となろう。
 寂しい場所と聞いていたが、どうしてどうして。おもいのほかに虫の声が賑やか。ときおり暗闇に光るのは獣の瞳。自分たちの縄張りに足を踏み入れた余所者を値踏みしているのであろうか。この分では妖の類も潜んでいるやもしれぬ。
 そんな中にまるで草木に埋もれるようにしてある、ぽつんと一軒家。
 いまにも倒れそうなあばら家こそが、木版の彫り師である伊之助の潜伏先。

  ◇

 家には明かりが灯っている。
 どうやら伊之助はいるようだ。
 勢い込んでやってきたはいいものの、当の相手が留守では意味がない。
 ほっと胸を撫で下ろした藤士郎は歩みを緩める。足音を立てぬように注意しながらあばら家へと近づく。
 いざ、戸口の前まできたところで、屋内にひと声かけようか寸の間迷うも、結局やめて、藤士郎はいきなり戸に手をかけた。
 戸には心張り棒がされておらず、ややがたついたもののあっさり開く。
 建付けのせいでけっこうな音がした。なのに住人はこちらを見向きもしやしない。
 行燈の明かりの下、長く伸びた男の影が揺らめく。
 伊之助とおもわれる人物は、もろ肌脱ぎにて背を丸め、何やら一心不乱に作業をしている。

 しゅっ、しゅっ、しゅっ、しゅっ……。

 軽快な調子にて鳴っているのは、木を削る音。
 無駄なく、無理なく、響く律動が耳に心地良い。
 匠の技は所作の洗練の果てにある。これより生じる音色もまたしかり。
 職人としての腕がいいとは聞いていたが、どうやらそれは本当のようだ。
 でもだからこそこんなところで腐らせるのは、あまりにも惜しい。藤士郎はつくづくそう思わずにはいられない。

 藤士郎は「もし、もし」と声をかける。
 しかし男から返事はない。
 ならばと草鞋を脱ぐことなく上がらせてもらい、近づきがてら、いま一度呼びかける。
 だがやはり応答はなかった。
 目の前の仕事に没頭するあまり、来客に気づいておらず、こちらの声も聞こえていないのか?
 だから肩でも叩こうとするも、寸前にて藤士郎はのばした手をあわてて引っ込めた。
 相手からただならぬ気配を感じたからだ。
 気焔、いや、これは鬼焔とでも言うべきか。
 数多の剣客らと対峙し、ときに妖とも向かい合ってきた狐侍をしても、触れるのをためらわせる。ちらりと見えた横顔、伊之助の目が異様に血走っており、頬は痩せこけ、顔色は青白く不吉な狂相がありありと浮かんでいる。

「これは夢中になんかなっているんじゃない。まるでとり憑かれているかのような……」

 おもわずつぶやいた藤士郎。
 するとここでようやく口を開いた伊之助。

「あと少しで終わる。邪魔をするな」

 発せられたしゃがれ声に抑揚はない。
 ぴしゃりと冷や水を浴びせかけられたようになって、藤士郎は固まり二の句がつげない。

 しゅっ、しゅっ、しゅっ、しゅっ、しゅっ……。

 不気味な沈黙の中、木を削る音だけが続いている。
 全身全霊という表現すらもが生ぬるい。まるでひと彫りごとに、己の魂をも削っているかのよう。
 藤士郎は総毛立つ。
 狐侍は職人の鬼気迫るその姿に圧倒された。

  ◇

 終わりは唐突に訪れた。
 ことりと手にしていた彫刻刀を脇に置く伊之助。
 たったいま仕上がったばかりの木版を眺めながら、満足げに「あぁ」と吐息を漏らす。
 そこで藤士郎が「幽霊星についてたずねたいことがある」との用件を伝えると、伊之助はようやく振り返るも、その姿を目にして藤士郎は内心で、ぎょっとなる。
 うしろからではわからなかったが、正面から対すると胸骨や肋骨が浮きあがっており、そのくせ腹だけが不自然にぽこんと突き出て、まるで地獄絵図に登場する餓鬼のような姿。
 まだ二十一歳という若者であったはずなのに、これでは朽ちた老爺のようではないか!

「幽霊星のよみうりかい? はははは、じつはあれ、三枚綴りの連作なんだよ。始めたときには最初のだけですますつもりだったんだけど、いろいろあって気が変わっちまった。いま、ちょうど最後のが仕上がったところさ。にしても、おまえさんも物好きだねえ。そんなことのためにわざわざ武蔵野くんだりにまでやってくるんだから。まぁ、いいだろう。そんなに知りたけりゃあ教えてやるよ」

 滔々と語り出す伊之助。
 藤士郎はじっと耳を傾ける。


しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

いじわる

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:0pt お気に入り:2

君に恋していいですか?

恋愛 / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:94

誰もいない城

ホラー / 完結 24h.ポイント:42pt お気に入り:25

機動戦艦から始まる、現代の錬金術師

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:21pt お気に入り:676

あなた方は信用できません

恋愛 / 完結 24h.ポイント:220pt お気に入り:33

処理中です...