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其の四十一 居合術
しおりを挟む帯刀状態から刃を抜き放ち、鞘走る勢いのままに相手を斬り伏せ、続く太刀捌きなどを経て、ふたたび鞘へと納めるまでの一連の動作。これを居合術もしくは抜刀術という。
その起源はとても古い。
かつて騎馬武者が戦場の華であった頃。馬上での戦いにおいて必要に迫られ生まれ磨かれた技術を祖とする。
だが時が流れ、戦の様相もずいぶんと変わった。
そしていまは太平の世。
人を殺すより、育み活かす剣が重宝される。
そんな時代にあっても、どうにか生き残ってきた居合術。
だが習得には極めて高度な技術が必要とされる。これを体現するのは至難の道。それゆえに実戦での有用性、強さを疑問視する声も多く、大半の流派では軽んじられ形骸化しているのが実情。
若かりし頃の近藤左馬之助も、居合術は模範演武の一種にて、ちょっとした見世物のごとく考えていた。
動きこそは流麗でかっこいい。だが敵は巻き藁や案山子ではない。動いている相手には通じない。竹刀と防具をつけて激しい打込み稽古をすればするほどに、その考えが強くなっていく。
しかしある男との出会いが、その考えを根底からひっくり返した。
◇
いまから六年ほども前のこと。
田沼意次の屋敷で催された御前試合。
御仁は武芸を奨励しており、もしもそのお眼鏡にかなえば栄達の道が開ける。ゆえに江戸中の名立たる道場から、我こそはという剣士どもが集った。
そんな晴れの舞台において、なんと数合わせで急遽呼ばれたという無名の若者が、あっさり十人抜きの快挙を達成する。
その時の試合において、みながこぞって中段のかまえをとるのに、若者のみがつねに腰に帯刀しているようなかまえに終始していた。しかもそれが小太刀の長さしかない、短い木刀となれば、物珍しさゆえに否が応にも気になるというもの。
もっともその時の試合内容は、お世辞にも褒められたものではなかったが……。
挙句にせっかくの快挙も、してやられた側から抗議の声があがり、なかったことにされてしまった。
けれども近藤左馬之助にとっては衝撃であった。
そして心底思ってしまった。「あいつ、なんだかよくわからねえけど、めちゃくちゃおもしれえ」と。
気づいたときには、田沼邸を辞去するその若者のあとを追っていた。
ただし、そのせいでお礼参りに待ち伏せていた連中とその若者との乱闘に巻き込まれて、散々な目に合うことになってしまったけれども。
◇
蒲生屋を襲った一味のひとり。ざんばら髪の牢人者と左馬之助との居合い勝負。
ほぼ同時に見えたふたりの出足。
だがわずかに速かったのは左馬之助。
深い踏み込み。一歩がとにかく大きい。いいや、それどころか地べたに這いつくばらんほどにまで、身を伏せての抜刀。ほとんどしゃがんでいるようなもの。頭部を敵前にさらすような危うい前傾姿勢。一歩間違えば脳天をかち割られかねない。
だが、それは傍目から見ればの話。
当の対峙している牢人者からすると、まるで相手の姿が視界から消えたように感じた。
そのせいで胴体を真一文字に斬ろうと放った牢人者の刀は、目標を見失い空を斬る。
一方で凶刃の下を潜り抜けた左馬之助が狙っていたのは、相手の右脚の脛。
単に倒すのではない。
殺さず動きを封じて逃げられなくする。
斬り捨て御免の火付け盗賊改めとはちがう。罪人を捕らえ、お白洲の場へと送ることこそが定廻り同心の役目。
これこそが九坂藤士郎と伯天流に出会い、辿りついた左馬之助なりの剣の形。
いまの道場剣法からすれば、邪道と蔑まれてもおかしくない一撃。
だがそれでいい。守るべきはちっぽけな侍の矜持なんぞではなくて、日々を懸命に生きている民草の平穏なのだから。
ざんばら髪の牢人者。
じつは左馬之助が足を狙ってくることはある程度予測していた。先に斬られた仲間のふたりが、ともに足をやられていたから。だが思い切りのよい体捌きと速い抜刀に目を見張るばかり。
ふて腐れて道をはずれた男と己の真っ直ぐを貫いた男。
その差が剣速にもあらわれる。
だが腐っても剣客! 剣と共に生きてきた意地がある。
虚しく空を斬った刃。これを途中で止めて、すぐさま切り返すのには膂力が足らぬ。そこで空いてる方の手をのばす。刀を持つ腕の手首をむんずと掴んで、これを強引に引き戻すという荒業に出た。
切っ先が向かったのは、無防備にさらされている左馬之助の背中。
「どうせ獄門送りだ。右脚はくれてやる。だがっ!」
せめてひと刺し。
だが、それが突き刺さったのは地面。
またしても左馬之助の体が消えた!
あろうことか左馬之助は全力で刀を振り抜いたとき、踏ん張るのではなくて勢いのままに前へと転がったのである。
みずから倒れる。ありえない動きに「嘘だろう」とつぶやいた牢人者。その身がぐらり、右の支えを失い視界がゆっくりと傾いでいく。
◇
ざんばら髪の牢人者が倒れるのを横目に、素早く跳ね起きた左馬之助。
「あー、ちくしょう、負けちまったかぁ」
刀を投げ出し、大の字に転がったままの牢人者、血の気が失せて真っ青になりながらも笑みを浮かべ「死中に活とか捨て身どころの話じゃない。無茶苦茶だな」と呆れれば、左馬之助は刀を鞘に納めつつ「そうでもない。おれの知り合いに比べたら、こんなのは児戯みたいなもんさ」と片眉をあげた。
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