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其の三十四 河童の料理本
しおりを挟む「だめだめ、もっと下から上へと全体をかき回すように。ほら、もっと腰を入れて気張って。底の方からじっくり丹念に揉むのよ」
「は、はい、お師匠さま! こんな感じでどうでしょうか?」
「そうよ、いい感じ。混ぜたあとは表面を平らにならして。中に隙間が残らないよう注意するように」
「はい、お師匠さま!」
台所で幽霊の熱血指導の下、河童の三太がせっせと糠床をかき混ぜている。
なんでも他人が触れると味が変わるそうで、師匠となった母志乃より自分専用の壺と糠を貰った三太は大喜び。それはもう楽しそうにこねくりまわしている。
そんな師弟の姿を端で眺めながら藤士郎、土産にもらったきゅうりに味噌をつけて丸かじり。
「もぐもぐ。河童ってば、てっきりきゅうりは生で食べるものだとばかり」
「はい。たしかに川の水できんきんに冷やしたやつを、がぶりとやるのは最高です。でも野菜の宿命にて、旬の時期をはずすとどうも……」
夏の盛りから秋口にかけてが一般的なきゅうりの旬。
だが地方によっては冬から春の時期に採れるものもある。限られた地域では年中収獲できたりもする。けれどもやはり旬の勢いにはかなわない。
とはいえ河童にきゅうりは欠かせない。
なぜだか知らないけれども昔からそうと決まっている。
そこで困るのが旬と旬の狭間の時期。繋ぎが必要となるわけで。
和え物にはじまり、とろろ汁に入れたり、刻んだお揚げさんと炒めたり、酢飯と海苔でくるんでかっぱ巻きをこさえたりと、あれこれ工夫を凝らしては、きゅうり料理の研究に余念がない河童たち。ゆえにきゅうりの漬物にもけっこう自信があった。
その自信をあっさり粉砕したのが、母志乃の糠漬け。
すっかり惚れこんで押しかけ弟子となった三太。とても熱心にて「いずれ厳選したきゅうり料理だけを百種集めた書を作りたい」なんぞとでかい夢を語る。
「河童の料理本かい? そいつはいいや。いかにも江戸っ子たちが面白がって、なんだかすごく売れそうだよ。準備が整ったら声をかけておくれ。私が知り合いの書物問屋を紹介してあげるよ」
「本当ですか、藤士郎さん。うれしいです、ありがとうございます」
喜色を浮かべる三太。「よし、そのためにもいっそう精進しないと」と気合いを入れ直す。
そんな弟子の姿を見守る師匠の母志乃が、腕組みしながらうんうん頷いている。
するとそこへ顔を出したのは、でっぷり猫の銅鑼。
はじめのうちこそは「けっ、じめじめする。青臭いったらありゃしねえ」と河童の来訪を邪険に扱っていたものの、三太が「しばらくお世話になります。つきましてはこちらをお納めください」と差し出した紙入れの中身を見るなり、「うむ。殊勝な心掛けである。あっぱれ」ころりと態度を変えた。
紙入れの中には金子にて五両ばかり。
宿賃にしてはいささか貰いすぎのようではあるのだが、三太いわく。
「お気になさらず役立ててください。どうせ川で拾ったものですから」
水の底にはいろんな物が落ちている。
ときには上流の山の方から、綺麗な石やら金の粒が流れてくることもある。
大きな川や湖に海ともなれば、千両箱や宝物をたくさん積んだまま沈んだ船なんぞもある。山奥の沼に隠されたまま忘れられた財宝なんかもあったりする。
おかげで水棲の妖たちは、みなけっこうお金持ちだそうで、とってもうらやましい。
えー、こほん、話がいささか横道へとそれた。本筋へ戻そう。
台所に顔を出した銅鑼。
「おい、藤士郎。表にへんな気配がしている。どうやらまた客がきたようだぞ」
その言葉に藤士郎は眉根を寄せる。
しゃべる猫、わざわざ「へんな気配」と付けたからには相応の理由があるはず。
訝しみつつも藤士郎は玄関へと向かった。
◇
癖のある潜り戸を開けてみると、表にいたのは中肉中背の若い男。服装はどこぞのお店の、いかにも如才がなさそうな番頭風。色白にて鼻筋がつんと通っており、ちょいと男前。もしも店先にいたら女性客が足繁く通いそうである。
背に風呂敷包みを持った男前がぺこりと頭をさげる。
「九坂さまのところに三太がお世話になっていると聞きました。つきましては不躾ながら、私もお弟子の末席に加えていただきたく。是非に是非に」
三太を引き合いに出しているということは、つまりその正体は……。
よもやよもやの河童、二体目が登場!
えっ、まさか河童たちの間で、いま九坂家の漬物が流行していたりするの?
思わぬ事態により藤士郎、困惑を隠せない。
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