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其の三十三 きゅうり
しおりを挟む本日快晴。
平穏な昼下がりのこと。
ところは九坂家の道場兼自宅の中庭、井戸の端。
水を張った桶を挟んでにらみ合っているのは、藤士郎と銅鑼。
ただいま、行水をめぐって家主と居候猫が対立中。
「この前抱いておもったんだけど……。銅鑼、ちょっと臭うよ。ここいらで一度、洗っておいたほうがいいとおもう」
「失敬なっ! おれは毎日、丹念に毛づくろいをしている。身だしなみには猫一倍気を遣っているんだ。そんなおれさまが臭いわけがなかろう。藤士郎、おまえの鼻こそがおかしいのだ。自分ばっかり旨い大福を食べたから、きっと罰が当たったのだ」
「またその話を蒸し返す。いい加減にしつこいよ」
「ふんっ、当たり前だ。食い物の恨みはとても恐ろしいんだぞ」
「へーえ、でもそんな話を持ち出してまで嫌がるってことはさぁ、自分でも少しは自覚があるんじゃないの? ほら、太ってる人って、のきなみ汗っかきだから」
図星を突かれてぎくり、怯むでっぷり猫。
前回、行水をさせられてからすでに四月近く経っている。
だから銅鑼も本音では「そろそろかなぁ」とは考えている。だが猫は基本的に水に濡れるのが嫌い。頭や理屈では必要とわかっていても、嫌なものは嫌なのである。
「ぐぬぬぬ、だったらせめて湯をわかせ。もしくは箱根の温泉に連れていけ」
「贅沢だよ、薪がもったいない。あとたかが猫を洗うためだけに箱根の関所を越えるだなんて馬鹿な話、聞いたことがないよ」
「あっ、いま、『たかが』って言った! 『馬鹿』とも言った! あー、傷ついた。おれの猫心はたいそう傷ついたね。もう、とてもではないが行水なんてやってらんない」
なんのかんのと屁理屈をこねては行水を逃れようとする銅鑼。
埒が明かないと判断した藤士郎、ついには襟首を掴まえて強引に水の中へと突っ込もうとするも、銅鑼は激しく抵抗する。
「もう、いらぬ手間をかけさせないでおくれよ!」
「てやんでぇ、余計なお世話だ。知ったこっちゃねえ!」
ついには取っ組み合いとなった。
でもこれは毎度のこと。
九坂家では珍しいことではない。
最終的には、藤士郎は爪の引っかき傷をたくさんこさえ、銅鑼は濡れそぼってひょろりと情けない姿となるのがお約束。
だというのに、この日はちがった。
「ごめんなすって、ごめんなすって」
表より屋敷内へと呼びかける声がする。
珍しい。昼日中にもかかわらず九坂家に来客があったようだ。
しかし母志乃は幽霊なので、さすがに応対はできない。そんなことをすれば相手がたちまち目を回して倒れてしまうもの。
ゆえに藤士郎は手を止めた。銅鑼はその隙にちゃっかりとんずら。
猫の行水失敗。嘆息しつつ藤士郎は濡れた手を前掛けで拭きながら、「はいはい、ただいまー」と声を張り上げ、急ぎ玄関へと向かった。
◇
全体が傾いでいるせいで建付けの悪い正門。
どうにか使える脇の潜り戸、くせの強いその扉を開けて「お待たせしました」と顔を出せば、立っていたのは手代風の格好をした背の低い男。風呂敷包みを背負っている。
人相風体からして藤士郎は、てっきり売掛の代金を取り立てにきた者かと考えた。
しかしそのわりにはお店をあらわす紋が入ったものを一切身に着けていない。
「はて?」
内心で訝しんでいると、ぺこりと頭をさげた男。
自分は弟子入り志願だと言った。
ただし伯天流道場のではない。
なんと! 母志乃に弟子入りしたいというから、藤士郎は目が点に。
しかし、それは無茶な話。なにせ母上は世間的にはとっくに不帰の人。
ゆえに死んだことを知らずに訪ねてきたのかもと考えた藤士郎は、やんわり「えーと、申し訳ないのだけど、母上はすでに亡くなっておりまして」と伝えたのだが、ここでさらにびっくり!
「へい、それは重々承知しておりますので、はい」と男。
どうやらただの客ではないらしい。
とりあえず立ち話もなんだからと、藤士郎は招き入れた。
◇
幽霊に弟子入りしたいと言ってきたのは、三太。
その正体は、隅田川の西、本郷と上野の間の谷筋を流れては不忍池に注ぐ藍染川に住む河童。
そんな河童がどうして母志乃のもとをはるばる訪ねてきたのかというと、発端は大工小鬼たち。
たまさか近くの祠の修繕にきていた連中。休憩時間に広げた弁当、その中にあったのが母志乃が手づから漬けた自慢のきゅうりのお漬物。
かつて九坂道場の屋根を修繕に訪れたおりに、お茶請けとして振る舞われた品をたいそう気に入った小鬼たち。以来、ちょくちょく志乃のところを訪れては、屋敷の中の細々とした修繕をする礼代わりに、漬物を分けてもらっていたという。
「いったいいつの間に……」
自分の知らぬうちに誼を結んでいた母志乃と小鬼たち。
そんな小鬼たちが、あんまりにも褒めるもので頼み込んで一切れもらったところ……。
「衝撃でした。きゅうりといえば河童だろう。それを差し置いて何を、と舐めてかかったところを、がつんとやられました。そしてほとほと己の未熟さを思い知らされました。だから、どうか、どうか、自分を弟子にしてください」
風呂敷包みの中身は駕籠いっぱいの朝採れきゅうり。
それを差し出されての懇願。
頭を下げられた当の母志乃は宙にゆらゆら、「あらまぁ、どうしましょう」と言いながらも、満更でもない様子。
この調子では押しかけ弟子が成立しそうにて、藤士郎はやれやれ。
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