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其の三十二 白昼夢
しおりを挟む注文した蕎麦が運ばれてきたもので、さっそく箸をつける若だんな。旨そうにずるずる。
すでに食べ終わっていた藤士郎は、ゆったり蕎麦湯を愉しんでいる。
「それでですね。うっかり貞助の口車にのせられて、お札を破いた大次郎なんですが……、許されてそのまま弁天堂に残ることになりました」
「ほぅ、許しましたか」
「ええ、やったことといえばそれだけですからね。大次郎は根が実直な男なんですよ。主人が適当を言ってその気にさせたのは事実ですし、周囲もそれに乗っかって揶揄っていたようなものですから。なによりおゆうと小太郎の姉弟が、そろって父親に手をついて許しを請うたのが大きかった。作業場のみなも庇った。それもこれもすべて、これまでこつこつと積み上げてきた仁徳の賜物でしょうね。大次郎は己が不明を恥じ、涙ながらに詫びたそうです。それでこの話は手打ちとあいなりました。ただ、大元となった貞助の野郎が野放しってのが、どうにも業腹ですよ」
そうなのである。
いろいろとたくらんでは、かき回してくれた蝮の貞助。
しかしあいにくと法には触れておらず、御用とはいかない。
悪だくみが露見したところで、いっそのこと庄之助を囮にして……。
という案もなかったわけではないが、万が一ということがある。
「大事な跡取り息子を危険にさらすなんて、とんでもない!」
津雲屋の強い意向もあって、事を起こさせるよりも未然に防ぐ方向で動いたという次第。
するとここで「くすくす」笑ったのは藤士郎。
「それがまったくの無事というわけでもないみたいですよ。これはつい先日のことなんですけど」
のっけからやること成すこと裏目に出てばかり。
せっかく入念に準備をした大博打も、やる前におじゃんとなった。
どうにも腹の虫がおさまらぬ貞助。
怒りの矛先は、けちのつき始めとなった人物へと向かう。
「どうあっても堂傑の野郎だけは許しちゃおけねえ。簀巻きにして大川に放り込んでやるっ!」
居所はわかっている。
だから貞助は手下をつれて知念寺へと乗り込んだ。
が、ここには歩く仁王さまとの異名を持つ、鬼よりも怖い御方がいる。
たかが坊主と侮ったのが運の尽き。
ありがたい説法まじりに唸る剛腕。ごちんごちんと鳴るごとに、境内に響くのは与太者たちの阿鼻叫喚。
「しこたま拳骨を喰らって、たんこぶをどっさりお土産に貰ったそうですよ」
公衆の面前で盛大に返り討ち。
足を引きずりほうほうの体(てい)で逃げ帰れば、はやくもそのことが町中に広まっており、すっかり面目を失った貞助。
あの手の稼業は舐められたらおしまい。大勢いた子分どももお見限り。さっさと離れてしまった。
こうなるとすべてが裏返る。
いままでやった悪行が倍々になって跳ね返ってくる。
仕返しに怯えた貞助は、夜逃げ同然にして何処かへと消えた。
◇
悪人が迎えた顛末を耳にして、おおいに留飲を下げる若だんな。蕎麦を平らげ、続いて蕎麦湯を愉しみながらしみじみ。
「……にしても今回の出来事は、いったいなんだったんでしょうかねえ」
大山鳴動して鼠一匹で済んだからいいものの、一歩間違えれば大騒動へと発展しかねない事柄であった。
たまさか若だんなが積極的に動いたからこそ、藤士郎の耳にも入っただけのこと。
もし若だんなが自分の気持ちを優先し、知らぬ存ぜぬを決め込んでいたら、きっと小悪党の奸計を見逃していただろう。いったいどれだけの不幸を呼び寄せることになっていたことか。
大事にならなくてよかったと、胸を撫で下ろす若だんな。
藤士郎は手にある湯飲みを弄びつつ。
「本当に……。みんながみんな、まるで夢にいいように踊らされて。とんだ白昼夢でしたよ」
胸の奥に残るもやもや。これを洗い流すように、湯飲みの中の冷めた残りをひと息に飲み干した藤士郎。事件は一件落着。話も終わったことだし、そろそろ腰を浮かしかけたところで。
「おっと、ひとつ言い忘れてました。例の弁天堂に迷惑をかけた陰陽師くずれの堂傑さんですけど。結局、そのまま巌然さまのお弟子になるそうです。すでに剃髪も済ませて修行に入っていますから、どうか堪忍してあげてください」
「へえ、あの和尚さまに弟子入りですか。それはまた奇特な……」
お経を読んでいるよりも体を鍛えている時間の方が、ずっと多いといわれる巌然さま。
その修行ともなれば、下手な武者修行よりずっと辛かろう。
贖罪としては充分すぎておつりがくる。
歯をみせ笑顔を浮かべる若だんな。
「そうそう、藤士郎さん。庄之助さんとおゆうちゃんが、一度、きちんとお礼を言いたいといってましたけど。あと祝言にも是非お招きしたいって」
これに藤士郎はあわてて手を振り「いやいやいや、お気持ちだけでけっこうです」と苦笑い。
「なにせこれ以上、甘い物を見せつけられたら胸焼けしそうですから」
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