狐侍こんこんちき

月芝

文字の大きさ
上 下
32 / 483

其の三十二 白昼夢

しおりを挟む
 
 注文した蕎麦が運ばれてきたもので、さっそく箸をつける若だんな。旨そうにずるずる。
 すでに食べ終わっていた藤士郎は、ゆったり蕎麦湯を愉しんでいる。

「それでですね。うっかり貞助の口車にのせられて、お札を破いた大次郎なんですが……、許されてそのまま弁天堂に残ることになりました」
「ほぅ、許しましたか」
「ええ、やったことといえばそれだけですからね。大次郎は根が実直な男なんですよ。主人が適当を言ってその気にさせたのは事実ですし、周囲もそれに乗っかって揶揄っていたようなものですから。なによりおゆうと小太郎の姉弟が、そろって父親に手をついて許しを請うたのが大きかった。作業場のみなも庇った。それもこれもすべて、これまでこつこつと積み上げてきた仁徳の賜物でしょうね。大次郎は己が不明を恥じ、涙ながらに詫びたそうです。それでこの話は手打ちとあいなりました。ただ、大元となった貞助の野郎が野放しってのが、どうにも業腹ですよ」

 そうなのである。
 いろいろとたくらんでは、かき回してくれた蝮の貞助。
 しかしあいにくと法には触れておらず、御用とはいかない。
 悪だくみが露見したところで、いっそのこと庄之助を囮にして……。
 という案もなかったわけではないが、万が一ということがある。

「大事な跡取り息子を危険にさらすなんて、とんでもない!」

 津雲屋の強い意向もあって、事を起こさせるよりも未然に防ぐ方向で動いたという次第。
 するとここで「くすくす」笑ったのは藤士郎。

「それがまったくの無事というわけでもないみたいですよ。これはつい先日のことなんですけど」

 のっけからやること成すこと裏目に出てばかり。
 せっかく入念に準備をした大博打も、やる前におじゃんとなった。
 どうにも腹の虫がおさまらぬ貞助。
 怒りの矛先は、けちのつき始めとなった人物へと向かう。

「どうあっても堂傑の野郎だけは許しちゃおけねえ。簀巻きにして大川に放り込んでやるっ!」

 居所はわかっている。
 だから貞助は手下をつれて知念寺へと乗り込んだ。
 が、ここには歩く仁王さまとの異名を持つ、鬼よりも怖い御方がいる。
 たかが坊主と侮ったのが運の尽き。
 ありがたい説法まじりに唸る剛腕。ごちんごちんと鳴るごとに、境内に響くのは与太者たちの阿鼻叫喚。

「しこたま拳骨を喰らって、たんこぶをどっさりお土産に貰ったそうですよ」

 公衆の面前で盛大に返り討ち。
 足を引きずりほうほうの体(てい)で逃げ帰れば、はやくもそのことが町中に広まっており、すっかり面目を失った貞助。
 あの手の稼業は舐められたらおしまい。大勢いた子分どももお見限り。さっさと離れてしまった。
 こうなるとすべてが裏返る。
 いままでやった悪行が倍々になって跳ね返ってくる。
 仕返しに怯えた貞助は、夜逃げ同然にして何処かへと消えた。

  ◇

 悪人が迎えた顛末を耳にして、おおいに留飲を下げる若だんな。蕎麦を平らげ、続いて蕎麦湯を愉しみながらしみじみ。

「……にしても今回の出来事は、いったいなんだったんでしょうかねえ」

 大山鳴動して鼠一匹で済んだからいいものの、一歩間違えれば大騒動へと発展しかねない事柄であった。
 たまさか若だんなが積極的に動いたからこそ、藤士郎の耳にも入っただけのこと。
 もし若だんなが自分の気持ちを優先し、知らぬ存ぜぬを決め込んでいたら、きっと小悪党の奸計を見逃していただろう。いったいどれだけの不幸を呼び寄せることになっていたことか。
 大事にならなくてよかったと、胸を撫で下ろす若だんな。
 藤士郎は手にある湯飲みを弄びつつ。

「本当に……。みんながみんな、まるで夢にいいように踊らされて。とんだ白昼夢でしたよ」

 胸の奥に残るもやもや。これを洗い流すように、湯飲みの中の冷めた残りをひと息に飲み干した藤士郎。事件は一件落着。話も終わったことだし、そろそろ腰を浮かしかけたところで。

「おっと、ひとつ言い忘れてました。例の弁天堂に迷惑をかけた陰陽師くずれの堂傑さんですけど。結局、そのまま巌然さまのお弟子になるそうです。すでに剃髪も済ませて修行に入っていますから、どうか堪忍してあげてください」
「へえ、あの和尚さまに弟子入りですか。それはまた奇特な……」

 お経を読んでいるよりも体を鍛えている時間の方が、ずっと多いといわれる巌然さま。
 その修行ともなれば、下手な武者修行よりずっと辛かろう。
 贖罪としては充分すぎておつりがくる。
 歯をみせ笑顔を浮かべる若だんな。

「そうそう、藤士郎さん。庄之助さんとおゆうちゃんが、一度、きちんとお礼を言いたいといってましたけど。あと祝言にも是非お招きしたいって」

 これに藤士郎はあわてて手を振り「いやいやいや、お気持ちだけでけっこうです」と苦笑い。

「なにせこれ以上、甘い物を見せつけられたら胸焼けしそうですから」


しおりを挟む
感想 138

あなたにおすすめの小説

柳鼓の塩小町 江戸深川のしょうけら退治

月芝
歴史・時代
花のお江戸は本所深川、その隅っこにある柳鼓長屋。 なんでも奥にある柳を蹴飛ばせばポンっと鳴くらしい。 そんな長屋の差配の孫娘お七。 なんの因果か、お七は産まれながらに怪異の類にめっぽう強かった。 徳を積んだお坊さまや、修験者らが加持祈祷をして追い払うようなモノどもを相手にし、 「えいや」と塩を投げるだけで悪霊退散。 ゆえについたあだ名が柳鼓の塩小町。 ひと癖もふた癖もある長屋の住人たちと塩小町が織りなす、ちょっと不思議で愉快なお江戸奇譚。

野槌は村を包囲する

川獺右端
歴史・時代
朱矢の村外れ、地蔵堂の向こうの野原に、妖怪野槌が大量発生した。 村人が何人も食われ、庄屋は村一番の怠け者の吉四六を城下へ送り、妖怪退治のお侍様方に退治に来て貰うように要請するのだが。

鎌倉最後の日

もず りょう
歴史・時代
かつて源頼朝や北条政子・義時らが多くの血を流して築き上げた武家政権・鎌倉幕府。承久の乱や元寇など幾多の困難を乗り越えてきた幕府も、悪名高き執権北条高時の治政下で頽廃を極めていた。京では後醍醐天皇による倒幕計画が持ち上がり、世に動乱の兆しが見え始める中にあって、北条一門の武将金澤貞将は危機感を募らせていく。ふとしたきっかけで交流を深めることとなった御家人新田義貞らは、貞将にならば鎌倉の未来を託すことができると彼に「決断」を迫るが――。鎌倉幕府の最後を華々しく彩った若き名将の清冽な生きざまを活写する歴史小説、ここに開幕!

ふたりの旅路

三矢由巳
歴史・時代
第三章開始しました。以下は第一章のあらすじです。 志緒(しお)のいいなずけ駒井幸之助は文武両道に秀でた明るく心優しい青年だった。祝言を三カ月後に控え幸之助が急死した。幸せの絶頂から奈落の底に突き落とされた志緒と駒井家の人々。一周忌の後、家の存続のため駒井家は遠縁の山中家から源治郎を養子に迎えることに。志緒は源治郎と幸之助の妹佐江が結婚すると思っていたが、駒井家の人々は志緒に嫁に来て欲しいと言う。 無口で何を考えているかわからない源治郎との結婚に不安を感じる志緒。果たしてふたりの運命は……。

御様御用、白雪

月芝
歴史・時代
江戸は天保の末、武士の世が黄昏へとさしかかる頃。 首切り役人の家に生まれた女がたどる数奇な運命。 人の首を刎ねることにとり憑かれた山部一族。 それは剣の道にあらず。 剣術にあらず。 しいていえば、料理人が魚の頭を落とすのと同じ。 まな板の鯉が、刑場の罪人にかわっただけのこと。 脈々と受け継がれた狂気の血と技。 その結実として生を受けた女は、人として生きることを知らずに、 ただひと振りの刃となり、斬ることだけを強いられる。 斬って、斬って、斬って。 ただ斬り続けたその先に、女はいったい何を見るのか。 幕末の動乱の時代を生きた女の一代記。 そこに綺羅星のごとく散っていった維新の英雄英傑たちはいない。 あったのは斬る者と斬られる者。 ただそれだけ。

散らない桜

戸影絵麻
歴史・時代
 終戦直後。三流新聞社の記者、春野うずらのもとにもちこまれたのは、特攻兵の遺した奇妙な手記だった。

剣客居酒屋 草間の陰

松 勇
歴史・時代
酒と肴と剣と闇 江戸情緒を添えて 江戸は本所にある居酒屋『草間』。 美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。 自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。 多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。 その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。 店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。

高槻鈍牛

月芝
歴史・時代
群雄割拠がひしめき合う戦国乱世の時代。 表舞台の主役が武士ならば、裏舞台の主役は忍びたち。 数多の戦いの果てに、多くの命が露と消えていく。 そんな世にあって、いちおうは忍びということになっているけれども、実力はまるでない集団がいた。 あまりのへっぽこぶりにて、誰にも相手にされなかったがゆえに、 荒海のごとく乱れる世にあって、わりとのんびりと過ごしてこれたのは運ゆえか、それとも……。 京から西国へと通じる玄関口。 高槻という地の片隅にて、こっそり住んでいた芝生一族。 あるとき、酒に酔った頭領が部下に命じたのは、とんでもないこと! 「信長の首をとってこい」 酒の上での戯言。 なのにこれを真に受けた青年。 とりあえず天下人のお膝元である安土へと旅立つ。 ざんばら髪にて六尺を超える若者の名は芝生仁胡。 何をするにも他の人より一拍ほど間があくもので、ついたあだ名が鈍牛。 気はやさしくて力持ち。 真面目な性格にて、頭領の面目を考えての行動。 いちおう行くだけ行ったけれども駄目だったという体を装う予定。 しかしそうは問屋が卸さなかった。 各地の忍び集団から選りすぐりの化け物らが送り込まれ、魔都と化しつつある安土の地。 そんな場所にのこのこと乗り込んでしまった鈍牛。 なんの因果か星の巡りか、次々と難事に巻き込まれるはめに!

処理中です...