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其の三十一 天網恢恢
しおりを挟む蝮の貞助、二つの菓子屋を相手取っての大博打。
ここで新たに登場するのが、津雲屋にいるもうひとりの菓子職人である仁吉。
こちらは大次郎とちがって腕はまだまだ。
餡を練らせれば三度に一度は鍋を焦がす粗忽者。大福を作らせれば大きさがまちまち、見た目も不恰好。用事を頼まれ蔵に入れば、いろんな種類の砂糖に目を回して右往左往する。
しょっちゅうぼんやりしており、いまひとつ仕事に身が入っていない。
何ごとにおいても熱が足りない。そのせいかまるでうだつがあがらず、のびもせず。ついには後輩に易々と追い越される始末。
いちおう職人ではあるが見習いの域を出ない。その他大勢のうちのひとり。
「ありゃあ駄目だよ、てんで話にならん。まだ若いんだし、いまのうちにとっとと他所にやるのが情けってもんだ」
そんな風に周囲から言われることもしばしば。
なのに当人はいっかな動こうとはせず、また店側も不思議と何も言わない。
それもそのはず、じつはこの仁吉、れっきとした津雲屋の本家筋の人間であったのである。
仁吉は先代津雲屋が、最晩年に若い妾に産ませた子。
だからいまの店主にとっては、親子ほども歳の離れた腹ちがいの弟になる。
もっとも先代の歳が歳だったもので、本当に彼の子種であったのかはかなり疑わしいところ。
さて、どうしたものやらと親族らが角つきを合わせて相談しているうちに、先代が死去。続いて妾であった母親までもが、あとを追うように流行り病で逝ってしまい、ひとり残された子。まさか放り出すわけにもいかず。
引き取っていっぱしの菓子職人に育て、ゆくゆくは自分の店を持たせ立派に独り立ちをさせてやろうと決めた。
将来、自分の店が持てる。
そのことが約定されていることが、職人にとってどれほど恵まれたことか。
だが幸と不幸を決めるのは自分自身の心の持ちよう。
仁吉はおおいに不満であった。
「どうしておいらがやりたくもない菓子作りを覚えなくちゃならねえんだ! 本当ならば大店の息子として奉公人からかしずかれる立場なのに。庄之助ばかりがちやほやされて、おいらだけががみがみ怒られてばかり。どうしてこんな目にっ!」
周囲からの過分な温情も、受け取る側に感謝の念がなければ意味がない。
ここにも夢を見ている男がいる。
にやりと貞助。雨上がりの蝮のごとくそろり、にじり寄っては耳元で囁く。
「だったらおまえさんが大店の主におさまればいい。血筋的にはなんら問題ない。庄之助さえいなくなれば……。もしもその気があるのならば手を貸してやってもいいぜ。えっ、見返り? なぁに、むずかしいことは言わねえよ。俺の自慢の妹を貰ってくれればいいだけさ。ほら、うちのお菊はたいそうな美人だろう? あいつもあんたと同じなのさ。大店の奥方ってのに憧れているだけ、可愛いもんさ。その夢をどうか叶えてやっちゃあくれねえかい」
かくして津雲屋の先代の隠し子、仁吉という切り札を手に入れた貞助。
手駒は揃った。筋書きも整ったことだし、あとは仕上げを御覧じろ。
上手く事が運べば一石二鳥、まんまと津雲屋と弁天堂のふたつを手中にできる。
蝮がそろりとかま首をもたげる。いよいよ獲物の喉笛に喰いつこう。
だが天網恢恢、疎にして漏らさず。
よもや己の悪だくみが、どこぞのでっぷり猫により看破されていようとは、夢にもおもわなかった。
◇
陰陽師くずれの堂傑がいなくなった。
これが計画のけちのつき始め。
弁天堂で影の怪異が止んでしまっては、せっかく頓挫させた縁談話が進んでしまう。
あとあと旨い汁を吸おうと欲を出し、なるたけ店の看板に傷がつかないようにと配慮したのが、こうなると裏目にでる。
だからあわてた貞助は方々に手下を走らせた。堂傑の居所を突き止めるために。しかしようやく探し当ててみたら、よりにもよって知念寺に駆け込んだというではないか!
不運はさらに重なる。
お菊と仁吉が日中、店の蔵で逢引しているところを、番頭にみつかって大騒ぎに。
この不祥事にいっとう目くじらを立てたのが、賢母と名高い津雲屋の奥方さま。
「あらまぁ、そんなに好きあっているのならばしようがない。いっしょになればいい、どうぞお幸せに。ただし二度とうちの敷居はまたがせませんからね」
祝いの金子だと五十両ばかり包んで、ふたりまとめて店から叩き出した。
これを機に仁吉ともしっかり縁切り。そのための手続きも滞りなく済ませる。
じつはこの時点で、銀花堂の若だんなよりいろいろと聞き及んでいた津雲屋側。しれっと素知らぬ顔で準備を整えつつ、わざとふたりを泳がせていたのである。
そんなこととは露知らず。
お菊と仁吉、若いふたりは甘い夢に浮かれて溺れてしまった。
どうやら奥方さま、前々からふたりを追い出す口実を探していたようで「やれやれ、これですっきりした」とそれはもうさっぱり、いい笑顔であったとか。
津雲屋と弁天堂との縁談?
もちろん余計な邪魔者がそろっていなくなったので、つつがなく。
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