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其の十九 茶袋
しおりを挟む自宅兼道場へと通じる坂道の途中。
足音ひとつしなかった。息づかいもなかった。衣擦れもなかった。
うしろから声をかけられるまで、まったく気づけなかった。
まるで突然そこにあらわれたかのよう。
あっさり接近を許したことに藤士郎は愕然とする。
頭に白い御高祖頭巾(おこそずきん)をかぶった紫の法衣姿。
楚々とした立ち居振る舞い。
柔和な笑みにて、その面差しは菩薩のごとし。
伽耶次郎から聞いていた通り、いいや、それ以上に美しい。
なのになぜだか藤士郎は一歩下がった。妖刀を手にした人斬り相手にも、一歩も引かなかったというのに、である。
ちらりと自身の脇をみれば銅鑼が毛を逆立て「しゃーっ」と威嚇している。
とても珍しいこと。やはり尋常ではない相手らしい。
「私は荼枳尼(だきに)というもの。この度はいろいろとお骨折りをしてくださったようで」
わずかに腰をひき会釈する仕草がどうにも艶っぽい。唇から零れる声が妙に心地よく、するりと耳の奥へと入ってくる。
瞬間、藤士郎はまるで長い舌でちょとちょろと耳の穴を舐められたかのような錯覚を覚えて、ぞくぞくり。
初心な反応を示す藤士郎にくすりと笑みを浮かべる荼枳尼。
だがここで銅鑼が吐き捨てるように言った。
「くそっ、最悪だ。へんな奴がこの界隈をうろついているとはおもっていたが、よりにもよってこいつとはな」
どうやら銅鑼は相手の正体に心当たりがあるらしい。
「おや、銅鑼はこちらの方と顔見知りだったの?」
「ちがう! 知ってるだけだ。こいつは『茶袋』、おれが知る妖の中でも、いっとう性質が悪い奴だ」
茶袋。
神出鬼没にて、たまさか巡り会った者の願いを叶えてくれる妖。
「はて? 話だけ聞けば、とてもお得な妖のような……」
藤士郎が首をひねると「何がお得なものかっ!」と銅鑼。
「こいつにはなぁ、善や悪、人倫、孝忠、規範なんていう線引きがまるでないんだよ。ただ相手が望むことを額面通りに受け止めて叶えてやる。それがどれだけ無責任で、怖いことか」
嫌悪感もあらわにてすっかり喧嘩腰の銅鑼。いまにも飛びついて爪でひっかかんばかり。
対する荼枳尼は平然としたもの。
「あらあら、ずいぶんな言われよう。でも仕方がないのですよ。だって私はそういうものなのだから」
鳥が空を飛ぶように、馬が地を駆けるように、魚が水の中を泳ぐように。
ただ己はそういう妖として生まれたのだから、そうするだけのこと。
それに自分はあくまで機会を与えてあげるだけ。
妹を玩具にされて弄り殺された男は、そんな真似をした侍どもを許せないと強く願った。
だから闇試合にて侍同士が殺し合う賭場の作り方を伝授してやった。
宴席にて酔った二本差し連中により、理不尽にも寄ってたかって痛めつけられた太鼓持ちの男は屈辱に泣いた。どうにかして連中を見返してやりたいと憤った。
だから賭場の元締めを紹介してやり、彼の右腕にしてやった。
不行跡が祟ってのお役御免。それを逆恨みした挙句に妖刀片手に逃げ惑う男は、「どうして自分がこんな目にあうのか? 剣の腕、刀あってこその武士であろう。自分は悪くない。まちがっているのは世の中の方だ!」と恨みつらみを吐き出す。
その男の手にあった妖刀は「もっとだ。もっとももっと人を斬らせろ!」と叫んだ。
だから闇試合の賭場へと誘ってやった。
田沼の殿さまより直々の命を受けて、妖刀持ちの人斬りへと挑んだものの無念の返り討ち。
主人と兄を一度に失って途方に暮れている子には、行くべき処を指し示してやった。
どれもこれもうまくいった。
願いは叶えられた。
「だけど私の仕事はそこまでなの。そこから先のことは知らないわ」と荼枳尼。
涼やかな目元。とても澄んだ瞳。悪意の欠片も浮かんじゃいない。
だがその無邪気さ、純粋さがいまは逆に怖い。
銅鑼がどうして嫌悪しているのかが、藤士郎にもようやく理解できた。
次郎の場合は、たまさかうまくいっただけのこと。
こいつは関わるべき存在じゃない。
だというのに……。
「さてと、そろそろ周囲がやかましくなってきたから、いったん江戸から去ることにします。でもその前に、九坂さまにご挨拶がてらお礼をと思い立ちまして」
荼枳尼の台詞を聞いたとたんに、どくん。
藤士郎の心の臓が跳ねた。
同時にかっと全身が熱くなって、頭の中に次々と湧いてきたのは、「あれが欲しい」「これが欲しい」「こうしたい」「ああしたい」「だったらいいな」などの自身の奥底に秘められていた欲望の数々。
他愛のないものから、だいそれたことや、はばかられるようなことまで。
心の中に誰もが持っているであろう欲望がつまった長櫃。その鍵を壊されて無理矢理に蓋をこじ開けられた!
とたんに溢れ出す欲、欲、欲。
それが頭の中で渦をなす。ぐるぐる、ぐるぐる。
「いかん! 奴の言葉に耳を貸すな藤士郎っ。うかつなことを口走れは取り返しがつかないぞ」
すぐ近くにいるはずなのに、銅鑼の声がどこか遠い。
そして自分の意志とは関係なく勝手に開く口元。
九坂藤士郎から発せられた願い。それは……。
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