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626 固いのと柔らかいの
しおりを挟む月がすっかり隠れてしまった暗い夜。
日中には大勢のスーツ姿が忙しなく往来している近代的なビル街も、この時間帯になればたちまち人気が失せて閑散となる。まるで無人のごとくなりて、ひゅるりと吹くビル風は肌寒く、寂寥感を誘う。
ここは東京都千代田区大手町……。
さりげなくブランドものを着こなせる、おしゃれな勝ち組こそが似合う街。
ひっそりと静まり返った街中にあって、やんやと賑やかで熱を帯びている区画がある。読売新聞東京本社ビル前だ。
沿道には大勢の見物客らが詰めかけており、なかにはシートを敷いてお弁当を広げている者までいる。
道路上には、ざっと百名ほどが集っている。
これらはみな今夜開催される「常陸国一宮の嫁獲り競争」に参加する猛者たち。
走る阿呆に見る阿呆ども。見渡す限りのシカ、シカ、シカ、シカ、シカ、豆タヌキ、珍獣、シカ、シカ、シカ、シカ……。
◇
動物たちが人化けの術にて人間社会にまぎれ込んでは、のほほんと暮らしていることは周知の事実。
さて、この化け術なのだが、すべての動物が使えるわけではなく、体内にて化けチカラをうまく練って循環させられなければ、ちとムズカシイ。
でもって化けられる対象も限られてくる。
そのさいたるものが人間であり、これを基本としてたいていがこの一種類にしか化けられない。
おれのようにいろんな物に化けられる、変幻自在な奴は非常に稀なのだ。
そしてシカたちなのだが、彼らが使う化け術は他といささか毛色が異なる。
おれはいろんなモノに化けられる。
けれどもそのかわりに、自分ではほとんど操作できない。せっかくクルマやバイクに化けても、それを乗りこなすドライバーが必要不可欠。
しかしながらシカたちはクルマに化けるだけでなく、自身でそれを操れる。
駆けっこ好きが高じて自然とこうなったというが、好きこそ物の上手なれとはよく云ったものであろう。ダーウィン先生もびっくりの超進化論!
だから、スタート地点にいる面々も、いよいよとなればみなドロンとおもいおもいのクルマに変化する。
しかし直前ギリギリまで化けないのは、いろんなチカラを温存するため。
なにせ二日に分けて行われる箱根駅伝のコースをひといきに走破せねばならぬのだから。長丁場を乗り切るための駆け引きはすでに始まっているのだ。
◇
わいわいたむろしている出場者たち。
古式ゆかしい長スカート姿の美麗メイドである瑪瑙さんは、俄然、注目の的。
それもそのはず。彼女こそが今宵のレースの哀れな生贄もとい景品なのだから。
野郎どもから向けられる遠慮のない野卑た視線を、ツンと澄まし顔にて毅然と受け流しているが、きっと内心では腸が煮えくりかえっていることであろう。
今宵、瑪瑙さんは自由を手にするために、おれが化けるラリーカーのハンドルを握る。
思い返せば奈良の地にてはじめて会ったときもそうであった。彼女は自分で化けて走るよりも、運転席に座ることを好む。そのドライビングテクニックには目を見張るものがあり、おれたちもたびたびお世話になっているから、全幅の信頼を寄せている。
おれもこの日のために化け術をしっかり仕上げてきた。いまならばダカールラリーに出場しても、きっと完走できるはず。いや、それどころか上位を狙えるかも。
はっきりいってローカル走り屋風情に負ける気がしねえ。
いまのところ唯一の懸念材料は助手席にてナビ役を務める芽衣。
ついさっきまでスマートフォンの地図アプリとにらめっこしていたタヌキ娘が「あれぇ、予備のモバイルバッテリー、どこいったかなぁ」と持ち込んだ鞄をがさごそ。フム。やはり不安だ。芽衣のナビはあまり鵜呑みにしないように気をつけよう。
◇
周囲の喧騒をよそに、静かに戦いの気運を高めていたおれたち三人組。
そこに近寄って来たのはとあるカップル。
しかしものの見事に両極端なタイプの組み合わせ。
黒縁メガネをかけた男はいかにも役所勤めの公務員とか、数学の教師みたいな雰囲気にて、ビシっとしてカチンコチン。
でも女の方は、死語かもしれないけれども全体が「きゃぴきゃぴ」しており、ふにゃりと柔らかギャルといった感じ。
このふたりが互いの腕を絡ませている姿の違和感といったら……。
男がおれたちに会釈をしてから、瑪瑙さんに向かって言った。
「姉さん、ご無沙汰しています」と。
彼こそが瑪瑙さんの弟である宇陀小路藍であった。
ある意味、今回の騒動の発端となった人物。
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