おじろよんぱく、何者?

月芝

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262 地獄返し

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 グニャリとした闇の海。
 意識と肉体が離れたときにだけ行ける場所。
 波間にぼんやり漂う。
 ここでは自分が自分だという確証が持てない。
 すべての境界があやふや。
 己という個が世界へとにじんで溶けてゆく。

「芽衣っ! しっかりしろっ! ボサっとしてんじゃねえっ!」

 声が聞こえた。
 よく知っている声。
 これは………………、四伯おじさんっ。
 瞬間、闇の彼方より光が射したかと思ったら、たちまち世界が引き裂かれる。
 そして意識は本来の居場所へと戻り、視界が明転する。

  ◇

 まぶたを開けたとき、芽衣のカラダは中空にあった。
 現在戦っている相手、田中仁蔵の放った投げ技「古流守母胡柔術、六道ヶ天獄」によって。
 これは激しいきりもみ状態にて敵を投げ飛ばし、生じる遠心力により手足の動きを封じ、受け身もままならぬまま脳天から地面に叩き落とすというおそろしい技。
 相手を掴んだままで連続投げを行使する「六道ヶ人獄」なる技から連なる死出の旅路。
 もしも途中で気がつかなかれば、そのまま三途の川を渡っていたかもしれない。
 だが芽衣は目覚めた。
 そして芽衣にとってさらに幸運だったのが、この戦っている場所。
 姫路アニマルキングダム、動物たち用の秘密ゲート・アンダーセブン。
 この施設は地下にあるがゆえに天井がある。
 それすなわち身軽なタヌキ娘にとっては第二の地面に他ならない。

「ぐぬぬぬっ」

 ここまでやられっ放しのうっぷんを晴らすかのようにして、芽衣が顔を真っ赤にして四肢にチカラを込める。
 でんでん太鼓のように暴れる手足の制御を強引に取り戻し、自身がきりもみするチカラをも利用して、ギュルギュルひねり宙返り。オリンピックの体操競技の床ならばまちがいなく金メダルをとれるであろう動きにて、ついには六道ヶ天獄なる技から脱する。
 地上からその様子を見上げていた田中仁蔵は「なんと!」我知らず叫んでいた。
 しかし彼が真から驚くのはここから。

 窮地を脱した芽衣が反撃に転じる。
 タヌキ娘が天井にコウモリのように接地。
 おらおら逆さヤンキー座り状態にてググっと足にチカラを溜める。
 溜めて、溜めて、溜めて、溜めて、そして爆発!
 両足にてしっかり天井を蹴り、ここまで溜めて加算されたすべてのチカラを突進へと転化する。

「狸是螺舞流武闘術、蹴の型、目貫き」

 針の穴に糸を通すような正確無比な蹴撃。
 それを引っ提げて天地をつなぐかのようにして急降下してきたタヌキ娘。
 田中仁蔵にはその姿がまるで巨大なツララか鍾乳石でも降ってきたかのように映る。
 さしもの古強者の巨漢も命の危険を感じカラダが勝手に動く。ほんの数歩ばかり退いていた。
 結果としてはそれが彼を救う。
 芽衣の蹴りはあまりに速く鋭すぎた。
 よろめいた田中仁蔵、その鼻先をタヌキ娘の飛び蹴りが疾駆。
 ほんの少しかすっただけで田中仁蔵の鼻からは血がたらり。
 鼻血が唇からアゴ先へと伝い、ポトリと落ちる。
 その動きを無意識に目で追っていた田中仁蔵ではあったが、ここでようやく蹴りを外した芽衣の行方を知った。
 地から天へと投げ飛ばされ、天から地へと舞い戻ったタヌキ娘。
 今度は地に這いつくばるような低い姿勢にて右の拳を固く握っている。
 拳に宿るは一連の戦いにて生じたモロモロのチカラが集約されたもの。

 目にした瞬間、田中仁蔵は悟った。「これを放たせてはいけない」と。

「させん! 古流守母胡柔術、六道ヶ修羅獄っ」

 打ち下ろし気味に放たれたのは張り手。
 先ほどとはちがい乱打ではない。かわりに一点に集中した狙いすました一撃。

「狸是螺舞流武闘術、錠前破り」

 溜めるほどに破壊力を増す必殺の拳。
 通常ならば溜めるのにけっこうな隙が生じるから、すぐ目の前に敵がいるような切迫した状況下ではなかなか使えない。しかし今回はあちらこちらからチカラをかき集めてあるがゆえに、溜めの時間は必要なし。即座にぶっ放せる。

 ゾウ男の一撃。
 鐘つき棒にてお寺の梵鐘を打ち鳴らすような豪快な張り手を、芽衣は紙一重にてかわす。
 タヌキ娘の一撃。
 横合いから打ち込まれた拳がめり込んだ先は、田中仁蔵の右脇腹。ぶ厚い皮下脂肪と筋肉の鎧。その奥にある肝臓を狙って放たれたもの。
 ボクシングでいうところのレバーブローといわれるパンチ。
 喰らえば呼吸や動きが止まり、これで倒されたときの苦しみは地獄もかくやとか。

 芽衣の渾身の一撃を受けた田中仁蔵。
 倒れることはなかったが、すでに戦意は失せていた。
 その証拠に両腕がだらりと垂れさがってしまっている。
 鼻血だけでなく口元からも血泡がごぼり。

「よもや、このワシが腹を殴られて倒されることがあろうとは……な」

 つぶやいたところで覇気が霧散する。
 田中仁蔵は立ったままで気を失っていた。

 戦いに「もしも」はない。
 とはいえ連続投げを喰らって意識がなかったときに、彼が関節技を決めていたら結果はちがっていたであろう。
 情けや手加減ではない。ましてや驕りなどありえない。
 それは彼の戦いぶりからも一目瞭然。
 あえて壊さなかったのは、未来ある若人への先人からの教え。「ますます精進せよ」と喝を入れられたのにちがいあるまい。
 芽衣は胸の前で合掌し「ありがとうございました」と頭を下げた。


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