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02 旅路の果てに Ⅱ
しおりを挟む「あなた……、どうして」
これが久しぶりに顔を会わせた夫に向けて妻が放った第一声。
「違うんだ。ちょっとした誤解なんだよ」
これが久しぶりに顔を会わせた親友が自分に向けて放った第一声。
妻が夫の留守宅に男を引き込んでの浮気現場。
普通ならば不貞を働いた妻に怒鳴るところであろう。
普通ならば裏切った友人相手に、腰の聖剣を抜いてもおかしくない場面であろう。
だというの自分の心は驚くほどに平静であった。
さざ波すらも起こらない。
怒りや悲しみ悔しさなんてものが微塵も湧いてこない。
おそろしく冷めていた。
視界の中のモノすべてが心底どうでもいい。
疲労のせいか、己が内にあったのは「とにかく自分の寝床にて体を横たえたい」という欲求のみであった。
だから私は彼らの耳障りな言い訳を遮るように手で制し、「話は後で聞く。とりあえず疲れたから寝る」とだけ告げると、あられもない姿の二人を放っておいて、さっさと二階の自室へと向かった。
聖剣に選ばれた時のことを夢に見た。
お昼休憩が終わり、気だるい午後の執務室にて眠気と戦いながら、書類の上を踊る数字の羅列に向かって難しい顔をしていると、不意に室内の空気がザワつく。
それでも無視して仕事に集中していたら、同僚から声をかけられた。
「ガトーさん、ガトーさん」
わずかに震えているその声に、違和感を感じた私は書類より顔をあげる。
顔の前に一本の剣が浮かんでいた。
その剣には見覚えがあった。
いや、この王都に住む者たちで、この剣を知らない者なんぞいやしないであろう。
大国を象徴する存在、伝説の勇者が持つと言われる聖なる剣。
一点の曇りもない銀色の刀身には、神代の文字と呼ばれる難解な文様が精緻に刻まれており、柄の中央には紅い玉がはめ込まれてある。持つ者に英雄のチカラを授けると言われ、普段は城の地下にある大聖堂の台座に深々と刺さり安置されている剣。
一般向けにも公開されており見学することは可能で、この国の住民であれば一度は見物に足を運んだことのある代物。
剣を前にして、キラキラと瞳を輝かせた子供たちは勇者伝説に想いを馳せ、熱意溢れる若者らは剣に選ばれ勇者となることを夢想する。
自分も学生の頃に授業の一環で見学したことがあるので間違いない。
でも、どうしてそんなモノが自分の目の前に浮いている? そもそも自分は騎士でもなければ兵士でもない。剣なんぞ学生時代の授業で習って以来、触れてもいない。なにより自分は王城務めのしがない事務員に過ぎないというのに……。
もしや周囲に誰かいるのかと首を動かしてみるも、あいにくと私の側には誰もいなかった。
室内に居合わせた同僚らは全員が席を立ち、壁際にへばりつくような格好にてこちらを凝視している。
《私を手に取りなさい。今代の勇者よ》
脳裏へと直接響いてきたのは凛々しい女性の声。
その声に誘われるように自然と剣へと手がのびる。
指先が緊張のあまり震える。
柄を握った瞬間に、剣が眩い光を放ち室内が銀の色に染めあげられた。
あまりの眩しさ、だというのにどうしても瞼が閉じられずに、視線を聖剣から逸らせない。
銀光が網膜を通じて自分の中へとなだれ込んでくるのを感じる。光の奔流が体内を駆け巡り、血肉と混ざり合い一つとなって、やがて光が収束する。
そしてただの事務員は勇者となった。
勇者となったことで否応なしに急転する日常。
王国にとって聖剣とは象徴であり、それに選ばれる勇者とは特別な存在。
極端な話、場面によっては王ですらもが傅くような相手となってしまった私は、荒れる大海にて翻弄される小舟のように、ただ流れに身を任せるしかなかった。
そしてそれは何も私だけのことではない。
大なり小なり周囲にも影響を及ぼす。
上司の尊大な態度は鳴りを潜め、友人や同僚らからは敬遠されるようになる。
妻もまた同様に押し寄せる変化に翻弄されることとなった。
突如として勇者の妻という立場になってしまった彼女。その戸惑いには気がついていた。だがあの当時の私は自分のことだけで精一杯で、困惑し狼狽している妻に気の利いた言葉のひとつもかけてやることすらしなかった。家庭を省みる余裕なんてなかった。
訓練期間を経て勇者として本格的に始動すると、それはいっそう顕著となる。
家を留守にすることも多くなり、戻らない日の方が次第に多くなっていく。
たまに帰っても精も根も尽きて眠るばかり。夫婦の会話なんてまるでない、満足に顔も会わせないすれ違いの生活が続く。
そんな私たち夫婦になにかと気を遣ってくれていたのが、学生時代からの親友のギイ・ポーウェルであった。
彼自身も近衛隊に所属する騎士という忙しい身分にありながらも、足繁く我々のところに顔を出しては、よく励ましてくれていた。
勇者に選定されたことで態度を変じる者が多かった中にあって、まるで変わらない彼の態度にどれだけ救われたことか。
だからつい私も彼に甘えてしまった。
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