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54 二人の荒ぶる女神
しおりを挟む「それにしてもお前は本当にあの母親の子供か? 美人の姉ともちっとも似てねぇし」
乙女の胸元をガン見しながら、そんな失礼なことをほざいたのは第八王子。
いつのまにやら思考の海での遭難から生還を果たしたようです。わりと完膚なきまでに叩きのめしたというのに数時間で復活されました。思いのほかにタフなようです。そして人の本質というものは、早々には変わらないということもよくわかりました。どうやら馬鹿は死ぬまでなおらないというのが、世界を股にかけての不変の真理のようです。
「今更ですが間違ってもうちの家族の前で、その事を口にしないでくださいよ。もしも口にしたら、たぶん死にます」
なにを大袈裟なとケラケラ笑う第八くん。
だからちょっと昔話を披露してあげました。
あれはまだ私が幼かった頃のこと。第八くんのように心ないことを言う人は、それなりにいました。ですが私は平気でした。例え橋の下で拾われた身の上だとしても、いまがとっても幸せだったからです。しかし誹謗中傷というのは時に思わぬところに波及します。どこかの誰かがポロリと言った。
「もしかして奥さん、浮気したんじゃねぇの」
もちろん事実無根です。
ですが不安の種というものは、たった一粒でも心に燻り続けてじわじわと蝕むかのように成長していくもの。一度芽生えた疑惑の念を払拭するのは並大抵のことではありません。
それでもお父さんは頑張りました。失礼な言葉を笑って受け流しつつ、沸々と込み上げてくる怒りを抑え続けていたのです。ですが人は誰しも心が弱くなる瞬間があります。そんな時にふっと魔が差すのです。
業界の会合に出かけていた父は帰宅したとき、とても酔っていました。
そして介抱するお母さんに向かって言ってはいけない禁断の言葉を、つい吐いてしまったのです。
その瞬間に、荒ぶる女神が降臨しました。
わりと筋骨隆々の逞しい体躯をした大男の夫の膝を蹴り、ガクンと態勢を崩させたところで髪と耳をまとめて鷲掴みにして、そのまま後頭部を固い床へと打ちつけるかのように引き倒します。
抵抗? できませんよ。髪とか耳って思いっきり引っ張られたら、瞬時に体の自由を奪われて、思考が飛んじゃうんですから。
こうして大男を組み伏せ、上に跨りマウントポジションをとった女。
そこからは乱打です。槍のごとき鋭い突きにも似た拳が次々とお父さんの顔面に降り注ぎます。しかも自分の手が傷まないようにと、いつの間にか手拭が拳に巻かれてありました。
あまりの怒涛の攻撃にお父さんも命の危険を感じ、なんとか振り払って逃れようとしていたのですが、そんなお父さんの腕をとって全体重をかけて肘間接を極めていたのはお姉ちゃんでした。
荒ぶる女神の娘もまた、荒ぶる女神だったのです。
六歳年上の姉は気丈にも妹の出産の場面に立ち会っていたそうで、母の苦しみと喜びを一緒に経験したことで、生まれてきた妹に対する思い入れが半端なかった。
だというのに母を侮辱する言葉を吐き、あまつさえ可愛い妹を否定するかのような父の物言いに、母同様に猛烈にキレました。
それでも所詮は女のチカラだろうですって? 馬鹿を言っちゃあいけません。ちゃきちゃきの下町育ちの女の喧嘩を舐めちゃあいけません。男どもみたいに正面から正直に殴り合わない分だけエグイんですから。女同士の争いをしばしばキャットファイトになぞらえますが、実態はむしろ闘鶏ですよ。弱点を晒したが最期、そこを徹底的に鋭いクチバシで啄まれて、爪で抉られて終わりです。
こうして存分に下町テクニックを浴びたお父さんは、じきにピクリとも動かなくなりました。そしてこの瞬間に我が家における順位づけが確定しました。
当然、第一位は母で第二位が姉です。父と私は次点で同位といったところでしょう。
「そんなワケなので間違っても、いま言ったような言葉はうちのお母さんの前で言わないように」
しんと静まり返る室内。いつの間にかみなさん私の話に聞き入っていたようです。第八くんに顔を向けると、彼は壊れた人形のようにコクコクと黙って頷いていました。どうやらちゃんと理解してくれたようでなにより。
私だって目の前で母や姉が王子殺しなんてしているところを見たくありませんからね。
こんな風にしてわりと和気藹々と過ごしていた私と王子一行ですが、刻一刻と時は過ぎ、包囲網が着実に狭まっていることを、この時はまだ知る由もありませんでした。
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