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その百四十七 牙
しおりを挟む禍躬の顎のチカラは強靭。鋭い牙は硬い岩を砕き、鉄の盾や鎧をも貫く。
それを前にすればヒトの身なんぞは、薄く透けた腸詰めのようなもの。
だというのにである。
いつまでたっても口腔内に芳醇な血の薫りが立つことも、肉がはじけ、骨が砕ける感触も伝わってこない。
かわりに牙越しに伝わってきたのは、とても堅く重たい拒絶。
緒野正孝が槍を横一文字にしてかざしていた。
これにより牙の進軍が阻まれ、シャクドウは驚愕す。
くわえ込んだ槍の柄、いくら噛み砕いてやろうとチカラを込めるもビクともしない。
禍躬の牙がヒトの牙に防がれる。
獣にとって牙は力の象徴のひとつ。その想いは獣から禍躬へと成ったシャクドウにも受け継がれている。ゆえにシャクドウは恥辱を感じ、頭に血がのぼった。そして「こうなれば意地でも噛み砕かねばおかぬ!」とムキになった。
もしもこの時、シャクドウがわずかばかりにでも冷静にて、いまの状況を見極めていれば、容易に勝敗を決せられていたであろう。
なにせ緒野正孝は槍を両腕でかざして踏ん張るだけで精一杯であったのだから。
ほんの少し、シャクドウが両腕の黒爪を振るえば十分に届いていたのに……。
感情ゆえに好機を逃がすシャクドウ。
一方で緒野正孝はつねに冷静であった。
状況のみならず、己が命をも天秤にかけては、どうすれば窮地を脱せられるかを模索し続けていた。
そしてさらに圧力を増そうとするシャクドウの動きに合わせて、ふいに左腕を引っ込める。
グイグイ押してくる相手に対して、緒野正孝は一歩半、身を引くを選択。
もしも頃合いを見誤れば、いっきに怒涛の攻めに呑み込まれていたはず。
しかし緒野正孝は土壇場にて、これを完璧にしてのける。
呼吸、力、踏み込み、間合い、気……。
すべてが滑らかに連動した瞬間、拮抗が唐突に失われた。
まるで梯子をはずされた格好となった禍躬シャクドウ。支えが消え、ずるりと前進。けれども視界が横へ横へと流れていく。
前へと突っ込んでいたはずが、斜めにいなされている?
自分の顔が槍の長柄に沿って受け流されているとシャクドウが気づいたときには、すでに緒野正孝が次の一手へと動いていた。
大きな口にて鋭い牙が並ぶシャクドウの口腔内。
それを鞘に見立てての、槍の鞘走り。
しっかりと槍を握り直した緒野正孝、踏み込むのと同時、むぅんと全身全霊でもって槍を振り抜く。
天霊矛が疾駆。
「うぉおぉぉぉぉぉぉーっ」
武人が魂の雄叫び。
させじとシャクドウがあわてて口を閉じて、これを強引に止めようとするも間に合わず。
深緑色の刃が一閃っ!
直後に散る血飛沫、ぶつりと肉を断つ鈍い音がした。
抜き放たれた穂先によって斬られたのは、禍躬シャクドウの口元。
そのせいで両の口角が広がり、顎もやや落ちる。完全に下がりきらなかったのは、シャクドウの抵抗によって、顎の筋肉のすべてを断つまでには至らなかったから。
「ぐるあぁぁあぁぁっ」
痛みのあまり顔をおさえて身悶えるシャクドウ。
けれどもやられっ放しではなかった。
ふり返りざまに豪腕を振るう。
全力で槍を振るったがゆえに動きが停まっていた緒野正孝は、これをかわせない。
とっさに槍を回し盾として直撃こそは防ぐものの、その身は大きくはじきとばされて、背中から壁へと激突。
がはっと息とともに血を吐く緒野正孝。
たまらず膝から崩れそうになるも、なおも手放していない槍を杖がわりにしてどうにか我が身を支えこらえる。
そこに迫るのは悪鬼のごとき形相をした禍躬。怒りのままに凶爪が振り下ろされる。
ふらつく緒野正孝にこれを受けることかなわじ。だからあえて足の力を抜いて、みずから倒れ込み石床を転がることで、それをどうにかかわす。
でもそこまでであった。いったん横になった身を起こそうとするも、うまく手足にチカラが入らない。
這いつくばったままにてもがく緒野正孝。
にへらと厭らしい笑みを浮かべた禍躬シャクドウは、ぐしゃりと踏み潰そうと右脚を振り上げた。ただしひと息には殺さない。まず背骨を砕く。そうすればもうろくに動けなくなる。あとは苦痛と恐怖に歪む相手の表情を堪能しながら、ゆっくりと食べ進めればいい。
だがシャクドウが片足立ちになった刹那、地の上を滑るようにして閃きが走る。
深緑色の風が吹き、ぐらりと体勢を崩したのはシャクドウ。
床の獲物へと向けていた視界が、正面から天井へと移りかわり、その巨躯がゆっくりとうしろへ倒れていく。
目の前に転がる槍の男に夢中となるあまり、禍躬は一瞬、その存在を忘れてしまった。
この地下迷宮には、禍躬の牙とヒトの牙以外にも、もうひとつ、山狗の牙があったということを。
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