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その百四十六 槍の道
しおりを挟む最寄りの経路へと姿を消した山狗の方をちらり。
シャクドウはそちらを追う素振りをみせた。させじと緒野正孝、すぐさま間に割って入ろうとする。
だがこれは禍躬の虚偽。突如として標的を槍の男へと向ける。
かくんとした急制動。コハクをかばうように移動していた緒野正孝は、一瞬、虚を突かれる格好となる。やや上体が流れた。下半身と上半身との連動にわずかばかりのほころびが生じる。軸がズレた。すぐにこれを修正するも、その時にはすでに眼前へと黒爪が迫っていた。
緒野正孝は爪による凶撃を槍の石突を跳ねあげてからくもかわすも、完全にはかわしきれず。側頭部を爪先がかすり、たちまち傷口より血がたらり。
この機に乗じてさらにもう一撃と目論む禍躬シャクドウ。
けれども大きく一歩を踏み出そうとしたところで、その動きを止めざるをえなかった。
出血に怯むことなく、体勢を建て直した緒野正孝が、半身を引き槍を正面に構えている。
ぴたりと鋭い穂先が向くのは、いままさに踏み出そうとしていたシャクドウの右後ろ足の膝のところ。もしもうかつに動いていたら、膝の皿骨を砕かれたばかりか、刺し貫かれて関節を完全に破壊されていたことであろう。
◇
禍躬とヒトと。
一対一での対峙。
これまでの激しい応酬が一転して、静かになった両者。
にらみ合ったまま動かない。
いや、シャクドウは動こうとしていた。
けれども動けないでいる。踏み出そうとするたびに、槍の穂先が機先を制し、これを拒む。
足を動かすのには、膝や太腿を持ちあげねばならぬ。それができない。
腕を振るのには、胸部や肩が先に動く。筋肉のみならず骨も意志にならう。すべては連動しているからだ。なのにそれができない。
緒野正孝の手の中にある天霊矛のせいだ。
槍の道を志す者が最初に習うであろう、もっとも基本的な構え。スーッと深緑色の切っ先が移動しては、ことあるごとに動作を行うのに必要な筋肉や関節の箇所へと寸分たがわず狙いを定める。
たんに合わせているだけじゃない。
正確にて精密、狙いの精度が尋常ではない。
単純にして明快。だからとてたんに基本へと立ち返ったわけじゃない。むしろその逆である。散々に紆余曲折し、艱難辛苦の果てに一周まわって辿りついたのが、槍の道の出発地点。
ありとあらゆるものを磨きあげ、不要なものを徹底的に削ぎ落し、研鑽に研鑽を重ねた末のこと。
ゆえに見た目こそはただの基本的な構えであるが、中身はまるで別物。
必中の槍。
これを前にしてシャクドウが「ぐぬぬぬ」とうめき声。
やたらと右目の傷がうずく。かつて忠吾から火筒を向けられた瞬間に感じた、あの感覚と同種のもの。それにこの槍からはコハクが持っていたのと同じニオイがする。忌々しい。
体格差と質量に物言わせて押し込めば、おそらく勝てる。圧殺できる。
だがしかし、勝利と引き換えに相応の代償を支払うことになりかねない。
怪我はいい。禍躬の治癒力により治せる。だが部位の欠損は困る。さすがに腕や足がもげてしまっては、元通りとはいかないだろう。
一方の緒野正孝はひたすら目の前の相手にだけ集中。後の先を狙い、その機を見逃さないよう注視するばかり。
両者動けず。
じりじりと互いの精神を削る静かな戦い。
焦燥感ばかりが募る時間が続く。
◇
緒野正孝とシャクドウが硬直状態へと陥ってるうちに、神殿方面へと続く経路をせっせと探っていたコハク。
さいわいなことに八本ある経路を順繰りに探ること、三本目にして彼方よりかすかに漂ってくる外気を山狗の鼻が拾う。
だからいそいで報せに戻ろうとする。
しかし戦いの場まであと少しというところで、不意に迷宮全体がドンっと揺れた。かなりの衝撃。おそらくは忘れられし都全体をも揺れたはず。どうやら地下の方で大量の蒸気を発生させていたものに、何ごとかが起こったらしい。
山狗の四肢ですらもが、しばし足を止めざるをないほどの激しい揺れ。
当然ながら二本足のヒトの身では、とても抗えるものではない。
それはヒトのように立ち上がっていた禍躬にとっても同じであったが、ヒトと禍躬とでは体躯と重さに雲泥の差がある。またシャクドウは通常時はふつうのクマ同様に四つ足で動いている。
だから前足をついてしまえば、さほど影響を受けない。
しかしながら緒野正孝はそうはいかなかった。
構えが崩れ、よろめく。
その隙を見逃さず、禍躬シャクドウが動いた。
四つん這いになっての突進。大口をあけて牙をむき武官の身を喰い千切らんとする。
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