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その百四十二 接敵
しおりを挟む白の世界。
霧煙る忘れられし都。
視界不良の中、高まっていくのは緊迫感。
禍躬の気配がみるみる強く、濃密さを増すばかり。
眼前に刃を突きつけられるかのような、全方位から槍の穂先を向けられるかのような、それでいて真綿でじわじわ首を締められるような……。
生殺与奪の権利を他者に握られる。圧倒的にまで理不尽な力が振るわれる。
どうしても己が死を意識せずにはいられない。
それを肌で感じつつ、一同は無言にて、臨戦態勢のまま前方を注視している。
耳にて距離を計ろうとするも、聞こえてくるのはしゅうしゅうという音ばかり。これはそこかしこから噴出している白煙のもの。ヤツの足音はまるでしない。
シャクドウはクマが禍躬に成ったもの。クマは巨体のわりに、動きは機敏にして、驚くほどに気配を消すのが上手い。ゆえに意図的に足音を殺して移動することも可能。
だから聞こえなくてもなんら不思議はない。
緊張のあまり額に汗が浮かぶ。
これを拭い、ついでに手の中にかいた汗も羽織っている外套の裾でこすり落す。
火筒の引き金にかけた指、その第二関節あたりを軽く動かし、指の筋が固まらないように気をつける。
仲間内の誰かが「ふぅ」と深く息を吐く。
焦りをこらえて、ひたすら好機が到来するのを信じて待つ。
時の流れがやたらと遅く感じる。
だが待てども待てども、禍躬シャクドウは姿をあらわさなかった。
◇
「おかしい……。どういうことだ。ヤツの気配はたしかにしているのに、姿がいっこうに見えないだなんて」
いつになくけわしい表情にてつぶやいたのは南部弥五郎。
かなり近くにきている。
それはまちがいない。張り詰める神経、肌が粟立ち、うなじのあたりにチリリと走る刺激……、禍躬狩りの血が教えてくれる。ビゼンやコハクたちも全身の毛を逆立てては、ずっと低い唸り声をあげたまま。
なれば視界の外、壁の向こうから接近しているのかと疑うも、それはないと南部弥五郎は断じた。
かつて湖国の領内で禍躬シャクドウが暴れまわっていた時。
たしかにヤツは民家の土塀や石壁、門などを膂力にてぶち抜き強引に侵入しては、家人らを襲っていたこともある。
しかしこの都の石壁はそれらとは比較にならない強度と厚みを持つ。いかにシャクドウとてたやすく打ち破れるものではない。よしんば破れたとしても一撃とはいくまい。ならば大なり小なり破壊音がして、こちらにもすぐにわかりそうなもの。
よって左右と背後から襲われる心配はない。
「……となれば、壁の上か? いいや、それこそ無理だ。ヒトの身ならば歩ける幅だが、さすがにシャクドウの身の丈ではむずかしい」
曲芸の演者のように綱を渡る要領にて、壁の上を歩く禍躬の姿を想像するも、あまりの荒唐無稽さに南部弥五郎は口の端を歪める。
気配はすれども姿は見えず。
あえて気配だけを漂わせ自分の存在を誇示しつつ、こちらが神経をすり減らして疲弊するのを待っているのか? 集中力が途切れるのを待っているのか?
だがあいにくと根競べには自信がある。
でなければ長期間、厳しい山河に身を置き風雪に耐え、ひたすら彷徨い歩くをつねとする禍躬狩りなんぞはやっていられない。
けれどもそんなことは禍躬シャクドウとて百も承知のはず。
なにせヤツはこれまでに何度も禍躬狩りと対峙しては、生き残ってきているのだから。
前方に敵影、いまだあらわれず。
左右と背後の守りに問題はない。
壁の上を渡るのはむずかしい。越えようとすれば、あの巨体のこと。どうしたってバレる。だとすれば残るは……。
南部弥五郎の思考がそこへと至ったところで、近くで「ふしゅーっ」と鳴ったのは地下から吐き出される白煙の音。
瞬間、南部弥五郎の頭の中でもろもろが合致する。
白い煙、蒸気、高度な古代文明、都……地下っ!。
「まさか」
はっとして自身の足下へと顔を向けた南部弥五郎。
うかつであった。これだけの規模の都。住人らを養おうとすれば、相応の設備が必要となる。そしてヒトはすべからく喰っては出すをくり返す生き物。
その場にてガバと伏せた南部弥五郎。霧に顔をうずめるようにして石床に耳を押し当てる。
するとかすかに聞こえてきたのは、轟々と風や水流がうなる音に混じって、重たい何かがずしぃん、ずしぃんと動いている音。
あわてて跳ね起きた南部弥五郎がみなに注意喚起を促すのとほぼ同時に、地面が激しく波打つ。
強い衝撃。ドンと突き上げられ、はずみでみなの身体が若干浮いた。
かとおもえば一転して落ち始める。
石床が崩されたと気づいたときには、その場に居合わせた者らの半数近くが穴へと呑み込まれていた。
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