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その百三十四 よくないきざし
しおりを挟む傷ついたコハクが風の民の逗留地へと運び込まれてから、四日目の夜明け前。
ようやく目を覚ましたとき、かたわらには温もりがあった。
自分の体温と生命力を分け与えるかのようにして、ぴたりと寄り添い寝ていたのは一頭の山狗。金に近い茶毛の美しい雌。
「……おまえはビゼン! どうして? おれはたしか、痛っ」
あわてて体を起こそうしたところで、コハクの顔が歪む。
「まだおとなしくしていなさい。でないとせっかく閉じた傷がまた開いてしまいますよ」
「しかし、シャクドウが、あいつを倒さないと」
「そんなボロボロの体で何ができるというのですか? いいから、いまは寝ていなさい」
無理をして立ち上がろうとするコハク。ビゼンはその襟首を口でくわえてぐいと引き止める。
衰弱し足腰が萎えているコハクは振り払えず、倒されてぐてりと寝そべる。
しかしなおも抗ってはギャンギャンうるさいもので、ビゼンは前足の肉球をむぎゅう、コハクの顔面へと押し当てて踏みつけ、「ええい、聞き分けのない。いいかげんにしなさい!」とたしなめた。
まるで母が子を叱りとばすかのような物言い。
これにはコハクも参ってしまう。かつて母と慕った白狼オウランの姿が脳裏に浮かんで、それが目の前にて眉尻をあげているビゼンと重なってしまった。こうなるともういけない。たちまち意気地が萎んで、尻尾もしゅんとなる。
ゆえにコハクはしぶしぶながらも言いつけに従うことに。
ふたたびくっついて仲良く寝ることになった二頭。
「おい、そんなにくっつかなくても」
コハクが身じろぎしつつ文句を口にすれば、「ダメです」とビゼンがぴしゃり。
「あなたはかなり血を失って冷たくなっていたのですから。ようやく血の巡りが良くなってきたとはいえ、まだまだ足りません。油断していたら、あっというまに冥府へと引きずり込まれますよ」
表層的な部分はすぐに温められるが、奥の芯の方がもとの熱を取り戻すまでには、いましばらくの時間がかかる。
ここで無理をすれば、必ず次の戦いに支障をきたす。肝心なところでしくじる。
だから戦士足る者、いまはじっとこらえ、心身の回復に努めるべき。
その通りであった。
理路整然とビゼンより諭されて、コハクはぐぅの音もでなかった。
背中越しにじんわり伝わってくるビゼンの温もり。
他者に身を委ねる。ひさしく忘れていた心地良さ。
気づけば猛き心も鎮まり、ふたたびうとうとコハクは微睡みはじめる。
ビゼンが静かに優しい声音にて囁く。
「いま、あなたの小太刀を女鍛冶師の方が直してくれています。それにあなたはもうひとりじゃない。
私たちがついています。
うちの弥五郎はびっくりするぐらいに腕をあげましたよ。それこそ忠吾さんにひけをとらぬぐらいに。緒野正孝の槍だって凄まじいものです。あの穂先を向けられたらまるで生きた心地がしません。それこそ火筒の玉ぐらい叩き落とすんじゃないかしら。弥五郎が手塩にかけて育てた山楝蛇の隊員らも頼りになります。
だから次はきっと勝てます。みなで禍躬シャクドウを倒し、この因縁に終止符を打ちましょう」
そんなビゼンの言葉を子守歌がわりにしてコハクは深い眠りへと。
◇
コハクが風の民の逗留地へ身を寄せてから、九日目のこと。
冬毬やビゼンの献身的な看病もあって回復は順調。すでに起き上がり、じょじょに体を慣らす段階へと入っていた。力は七割五分ほどにまで取り戻している。この調子ならばあと二三日もすれば完全復活することであろう。
忠吾が施した厳しい鍛錬と、野生で磨かれてきた肉体を持つ山狗コハク。たとえ倒されても、さらに気焔をあげ旺盛に立ち上がろうとする不屈さは、その身に宿した成果のひとつ。
これには緒野正孝や南部弥五郎もほとほと感心するばかり。
そんなさなか、事態に動きがあった。
ただし悪い方へと。
連絡用の黒翼経由にて届いた、よくない報せはほぼ同時期に二か所から届く。
ひとつは港湾にて停泊している紀伊国の軍船・葉魚を預かっている伊瑠から。
『連合内部にあわただしい動きあり。第四次討伐戦のきざしやも』
もうひとつは西街を預かる元締めにて、南部弥五郎らの協力者でもある火乃より。
『すまない。どこぞより情報が漏れたかも。もしくはあまりの動きのなさに、勘づかれたかもしれない』
情報とは、緒野正孝や南部弥五郎らの手によって、禍躬ジャナイとギサンゴが討ち取られたこと。
あえて討伐したことを伏せていたのは、連合軍の連中を無闇に調子づかせないため。
烏合の衆とまではいわないが、各国の思惑が複雑に絡み合っている集団。
一枚岩にはほど遠く、なおかつ実力や兵装にもばらつきが目立つ。国元から派遣されてきているだけあって、それなりに優秀な粒ぞろいなのだが、いかんせんこれを有効に運用できるまとめ役がいない。もとから連合に所属している派と、新参の派でのせめぎ合いもやっかいだ。
正しく事態と状況を見極められる慎重な者もいれば、その場の勢いばかりにて突っ走ろうとする無謀な者もいる。
ここ宝雷島を苦しめていた三体の禍躬。
うち二体が倒されたと知れば、「残りは一体のみ。ならば自分たちにだって」とかんちがいする者がきっとあらわれる。そしてひとりが突出すれば、我も我もとあとに続く者たちが……。
「まずいな。最後のやつこそが一番の難敵だというのに」
自然と目元が険しくなる緒野正孝。
「バカどもめ。またぞろ同じ過ちをくり返すつもりか」
辛辣に吐き捨てる南部弥五郎。
一度動きだしてしまえば、暴走する集団を止める手立てはない。
なれば、連合からのいらぬ横槍が入る前にケリをつけるしかない。
男たちはそのための準備へと入った。
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