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その百三十 女鍛冶師
しおりを挟む赤涙川の中流域にある浅瀬にうちあげられた山狗はピクリとも動かない。ぐったりしたまま。
全身の骨が砕けたかのような痛みに、煩悶するコハク。
受けた刀傷が熱い。なのに体は逆に寒くて凍えそう。出水に呑み込まれたせいばかりではあるまい。おそらくは血を流しすぎたせいだ。なにより己が未熟により、禍躬シャクドウに不覚をとったことが、敗北感がコハクを容赦なく打ちのめす。
朦朧としている意識の中、暗い安寧の底へと落ちかけるたびに、どこぞより響くのは忠吾の声音で嘲笑するシャクドウの声。
そのたびにはっとして、夢から現へと引き戻される。
それとともに屈辱、憤怒がまざまざと蘇る。すぐさま立ち上がって、これを晴らさずにおくべきかと気焔があがる。
なのに肝心の体がまるで言うことをききやしない。呼吸をするのも苦しいぐらい。
できることといえばせいぜい薄目をあけて、口の端をわずかに動かす程度のみ。
自分はこのまま死ぬのかもしれない。
水音を聞きながら、コハクはぼんやりそんなことを考えているうちに、意識はふたたび闇へと落ちていく。
◇
ずずず、ずずず、ずずず……。
何か重たいものを引きずる音にてコハクは目が醒める。
すぐに運ばれているのは自分であると気がついたものの、やはり体はまるで動かず。
ともすれば閉じようとするまぶたをどうにかこじ開け、己を運ぶ相手を見てみれば、そこにあったのは、白い髪の女の背中。
晴れた日の雪原をおもわせる白髪をうしろに束ねている女。
ぱっと見には細身。だがそれは華奢ということではない。一切の無駄、贅肉を削ぎ落とし必要な筋肉だけを残した体。
コハクはその体を知っている。
かつて忠吾に連れられて訪れた鍛冶場で目にしたことがある。これは火と鉄を相手にする鍛冶師のもの。
女の身ひとつにてぐったりしている大柄な山狗の体を運べるのは、コハクを帆布に載せているため。こうして引きずれば重たい物でも移動させられる。人間の知恵だ。
とはいえかなりの力仕事。
ふぅ、ふぅ、と女の息づかい。汗が滴る。
ひょうしにスンとコハクの鼻先をかすめたのは、火と鉄のニオイ。でもそればかりじゃない。どこか懐かしいニオイも混じっている。
自分はこの女を知っている。以前にあったことがある。
だから思い出そうとするも頭がうまく働かない。
そんなとき、女がちらりとこちらをふり返り言った。
「犬神さまの眷属の御方。お久しぶりです。冬毬です。じきに我々の逗留地につきますので、いましばらくのご辛抱を」
いくぶん大人びてはいるものの根っこの部分は変わらない。聞き覚えのある懐かしい声。
それを耳にしたとたんにコハクはうとうと微睡み、世界には闇の帳が降りてくる。
けれどもあれほどうるさかったシャクドウの嘲笑は、もう聞こえてこない。
◇
良質な鉄や鉱物を求めては各地を巡り流浪する鍛冶師集団・風の民。
冬毬(とまり)は風の民の娘。
コハクとは白狼オウランが縄張りとしていていた、繭玉山近くの湯治場にて出会う。
不思議な娘で、山の獣たちは誰も冬毬を拒絶することなく、自然と受け入れていた。
それは彼女がかつてヒトと山を繋いでいた山巫女を祖に持っていたから。
かつて天と地やヒトと獣の境があやふやであった頃。
すべてを繋ぐ言葉があって、世界は確かにひとつに繋がっていたという。
ゆえに人間たちは今よりずっともっと山や自然に敬意を払っていた。
いきなり立ち入るような無粋なことはせずに、事前にいちいちお伺いをしていたものである。その役目を担っていたのが山巫女。
しかし時代を経ていくうちに自我が強くなり、お互いの関係性が定まっていくと、境は見えない溝となり壁となり、ついにはお互いを隔てるようになってしまった。
いつしか繋ぐ言葉も失伝されてしまった。
山巫女の血も他者と交わるのをくり返すうちに、すっかり薄まり、ついぞ見かけなくなった。
かくして、天は天、地は地、ヒトはヒト、獣は獣と分断の時代へと至る。
なのに何の因果か、ひょっこり先祖返りして産まれたのが冬毬という娘。
ゆえに仲間内からは浮いた存在となり、ついには立ち寄った先にて、その地を支配していた狒々神の花嫁に選ばれてしまったところを、コハクに助けられた。
コハクが首からさげていた小太刀「霊の永遠白」は、その時のお礼として冬毬から譲られたもの。
十年ぶりに再会した冬毬。
かつては小柄で守られるばかりであった娘も、いまでは成長し立派な女鍛冶師となっていた。
風の民がここ宝雷島へと来ていたのはたまさか。なにせここは良質な鉱石が採取できるがゆえに。だが運悪く島が三体の禍躬の脅威にさらされるようになってもなお、この地に留まりつづけていたのは、冬毬の意志である。
各地を巡っていると、ときおり聞こえてくるのが深緑の刃を武器に禍躬と闘う山狗の噂。
冬毬にはすぐに誰のことかわかった。
島がこんな状態になったとき、必ずここへとやってくるとの確信を持つ。そして「きっと自分の力が必要になるはず」との直感めいた予感をも抱く。それが山巫女の血がなせることなのかはわからない。だが、かつての恩義を返すのはここしかないと冬毬は定めた。
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かくして結んだ縁(えにし)は紡がれ、ふたたびこの地にてひとつに寄り集う。
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