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その百二十七 大切な教え
しおりを挟む忠吾の声にて名前を呼ばれた瞬間、コハクは驚きのあまり動きが止まった。
にやりと厭らしい笑みを浮かべるシャクドウの背中の顔。間髪入れずに第三の腕による殴打が襲いかかってきた。コハクはこれを避けるために、後方へと大きく跳ねて距離をとる。おもわぬことにより千載一隅の機会を失する。
混乱、戸惑いののちに湧き起こった感情は、怒り。
コハクの内にてかつて経験したことがないほどの激情がほとばしる。血が沸騰し、はらわたが煮えくりかえるかのよう。
これまでちらりとも考えなかったかといえば嘘になる。
かつての戦いにおいて、祝い山の堤堰から奈落へと落ちたとき。
禍躬シャクドウの手にはしっかりと忠吾の体が握られていた。いったん手に入れた物に異様な執着をみせるシャクドウ。その性質を知っていれば可能性は多分にあった。
地下水脈にて、湖国より遥か北方、海をも越えたここ宝雷島へと運ばれた禍躬シャクドウ。その時点で瀕死状態であったことはまちがいない。
坑道の奥深く。陽の光がまるで届かず。立ち入る者も稀。冷たく暗い場所。
闇の底で、かろうじて禍躬シャクドウの露命を繋ぎ止めたのは何か?
それは……。
仕留めた獲物を喰らい己が血肉とする。
とても自然なことだ。だからそのことに関しては、たとえ業腹であろうともコハクは理解し認めている。けれども、その糧とした相手を冒涜するような行為はとても承認できない。
ましてや、それが自分にとってかけがえのない人物であったとすればなおさらのこと。
「おまえ……忠吾を喰ったのか」
押し殺したようなコハクの声が打ち震えている。
「あぁ、喰ったよ。やたらと筋張って、肉も固く、少し火薬くさかったが、歯ごたえがあって、噛めば噛むほどに濃い味が染み出て、あれはあれで悪くなかったな。ずっと女子どもの柔らかい肉ばかり喰っていたから逆に新鮮だった。なによりものすごく元気を貰った。すごいな、あの忠吾という男。さすがは幾多の禍躬を葬ってきた強者だけのことはある。あいつを喰らったおかげで、ほれ、この通り」
禍躬シャクドウは立ち上がり、両腕を広げて、自身の健在ぶりを誇示するかのような姿勢をとる。
「ふふふ、そんなに見つめてくれるなよ、山狗。照れるじゃないか。喰らった相手の声をこの身に宿していたことがそんなに不思議かい?
詳しいことは私にもわからんよ。なにせ気づいたらこうなっていたからねえ。
ひょっとしたら忠吾に感謝と畏敬の念を強く抱いたからかもな。なにせ数多の軍勢をも退けてきたこの私をあそこまで追い詰めた男なのだから。いまでもあいつに火筒を向けられたときのことを思い出すとゾクリとする。ざわざわしてしようがない。
たとえ種族は違えども、一匹の牡として、グッときちまったのは本当さ。愛しい愛しい。それこそ骨の随までしゃぶり尽くし、髪の毛一本すらも残さずきれいにたいらげるぐらいには、ねえ」
どこか恍惚とした表情にて、舌にて口のまわりをべろり。
地の底にて忠吾を喰らったときのことを思い出しているのか、シャクドウは口元をもごもごとさせている。
この態度にコハクは激昂!
大切な人を愚弄され、我を忘れ猛進。
たちまち疾風と化し、跳躍、怒りの刃をほとばしらせ、一撃のもとに禍躬シャクドウの脳天をかち割ろうとする。
けれどもあろうことか、その刃を禍躬シャクドウに止められてしまった。
口にてがっちりとくわえ込まれた深緑の刃。
感情のままに動いたせいだ。いつもよりもずっと精彩を欠き、乱れた剣筋。流星のごとき閃きが見る影もなく、ゆえに容易に防がれてしまったのである。
『憎しみで狩りをしてはいけない。なぜなら憎しみは心を惑わし、まなこを曇らせる。そうなれば、相手へと向けた牙や爪はたちまち己に跳ね返るということを、よぉく覚えておけ』
山での修業時代、忠吾からくり返し言われた大切な教え。それをほんの一瞬とはいえ忘れるとは……。
コハクが「しまった」と後悔したときには、すぐ眼前にシャクドウの拳が迫っていた。
すぐさま小太刀を放そうとするもとても間に合わない。
来たるべき衝撃に備えて、コハクがぐっと下腹に力を入れる。
が、まさに横っ面を殴られるかとおもわれた直前にて、拳が軌道を変えた。
豪腕が狙ったのは山狗の顔ではなくて、くわえていた深緑の刃の方。
星の欠片、隕鉄より鍛えられた霊の永遠白。風の民の娘より託された小太刀。
通常の鉄の刃よりもずっと重く、丈夫で、人間の手にはいささか余るものの、山狗の加速度が加わることにより、それは禍躬殺しの刃となりうる。
コハクはこの十年、各地を放浪しては、この小太刀にて幾多の強敵どもを屠ってきた。
激しい戦いを経ても刃こぼれひとつしなかった霊の永遠白。
刀身がたわむ。びきりと不穏な音がしたとおもったら、たちまち表面に細かいヒビが入り、ついにはぼきりと折れた。
ずっと頼みにしてきた武器が破壊され、唖然となるコハク。
対するシャクドウは「どうにも嫌な気配がしていたものでねえ。だから先にこっちから片付けさせてもらったよ」と隻眼を愉快そうに細めた。
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