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その百二十 天樹の森

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 険しい峰が壁のように周囲を覆った盆地を濃厚かつ鮮やかな緑が埋め尽くしている。
 コハクにはひと目でわかった。
 ここがまだ誰も人間が踏み入ったことのない、野生の森であるということが。

「……そうか、この宝雷島ではずっと二体の禍躬がいがみ合っていたから、そのせいで人間たちが鉱山以外の場所にはほとんど手をつけていないんだ」

 どこまでも続く青い空、けっして水が尽きることのない広大な海、天突く山々、木々生い茂る森、風駆ける草原……。
 この世のすべて、天地を創造せし者。
 それを神と呼び、大地に生きる者たちはこれを敬う。
 ヒト以外の生き物が成りし者。
 これを禍躬(かみ)と呼び、地に生きる者たちはこれを恐れる。
 なぜなら禍躬にとって、その他の生き物はすべて糧であり、気まぐれに弄び、蹂躙するだけの相手でしかなかったからである。
 己が生まれ持った領分、理を大きく逸脱した存在。万物の敵にて倒すべき者。
 だがしかし、その身がときとして防壁となり、燎原の火が広がるのをくい止める一助となっていることもまた事実。

 かつて白狼オウランはこのようなことを言っていた。

「海の向こうの地には禍躬なんぞはいない。かわりに人間どもが掲げる神が争いの火種となり祟っている」と。

 禍躬がどうして発生するのか、その本当のところは誰にもわからない。
 ただ昔から大地の気が濃厚な場所にて成ると伝わっている。
 予兆は瞳にあらわれる。じょじょに赤味を帯びて、やがては真紅へと変わる。そして放つニオイもまた禍躬特有のものとなっていく。
 だが、そのような場所に住んでいる者らがすべて禍躬に成るわけじゃない。
 成る者と成らない者。それを隔てるのはいったい何か?
 これまで何体もの禍躬と対峙し、これを討ち破ってきたコハクではあったが、いまだに答えは得ていない。

  ◇

 ふと脇に目をやれば崖沿いに細い道があった。いや、道と呼ぶにはいささか語弊がある。なにせ狭く、ところどころ途切れているのだから。
 おそらくは長い風雪により自然と山肌が削れてできたもの。人間の足ではとても渡れない。けれども山狗の足なれば問題ない。
 だからコハクはそちらを伝って崖下の森へと向かうことにする。

 この地は丸い形をした盆地ゆえに、内部を埋め尽くす森もまた丸い。
 そしてその中央にもまた丸い空間が存在していた。
 小高い丘のようになっているらしく周囲より一段高い。いささか奇妙なのは、そこだけ空き地みたいになっていること。
 あるのは一本の大樹のみ。遠目にも伝わってくる風格。かなりの年代を経てきた古木。まるで他の木々がその大樹に遠慮をして、あえて距離を置いているように見える。あるいはすべての木々が首を垂れてはひざまづき、王のように大樹を称えているかのようにも。

「とりあえず森を突っ切りがてら、あそこに行ってみるか。誰かいればこの先の道や、シャクドウのことも何か訊けるかもしれない」

 当座の方針を決めるなり、コハクは駆け出した。

  ◇

 一歩立ち入ってすぐに気がついた。
 森が緊張している。どうやら自分という異物が混入したことを早くも察知し、この地に住む者らが警戒しているようだ。
 繁みの奥、枝葉の向こう、木の幹の陰や洞の中、苔むした岩の裏などなど。
 そこいらから視線を感じる。
 しかしコハクはそれらを無視して駆け続けた。

 いざ入ってみると森の中の印象は、外から眺めたのとはずいぶんとちがった。
 こんもりもっさり、密々した姿であったので、もっと鬱蒼としているのかとおもいきや、そんなことはない。
 木漏れ日が地面にまで届き、ほどよき明るさ。ときおり吹く風も心地よい春風のようにて、足下もほとんどぬかるんでいない。気持ちのいい場所である。

 途中にあった泉にて喉を潤おす。近くに食べられそうな果実もあったので、試しにかじってみたらたいそう甘くて驚いた。
 ほどよく腹がくちたところで、ふたたび走り出す。
 そうしてじきに目標としていた中央の大樹のもとへと到達したのだが……。

「丘なんかじゃない。これは木の根が折り重なってできたもの。全部、あの大樹の根なんだ」

 どれだけの歳月を経ればこれほどの威容に育つのか、コハクにはまるで想像もつかない。
 これに比べれば山狗の一生なんぞは、枝から葉がはらりと散るのに等しい、ほんのつかのまのこと。圧倒されてポカンと見上げるばかり。
 するとその耳にバサリと翼の音が聞こえてきたもので、はっとして音のした方に顔を向ける。
 大樹の枝にて翼を休めていたのは、黒い羽を持つ者。
 禍躬狩りが空の相棒とする黒翼である。

 黒翼が言った。

「自分はロタという。よくきたな山狗の戦士。ここは天樹の森。島で行き場を失くした者らが最後に辿り着く場所」


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