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その百十九 鍾乳洞
しおりを挟む浜辺から森を駆け抜け、はや山岳地帯へと到達したコハク。
人間たちが三叉矛嶽と呼ぶ場所は、ここよりさらに名もなき山をふたつみっつ越えて、奥へと進んだところ。
唐突にコハクの前にあらわれたのは岩壁。傾斜はほぼ垂直にて、見上げるほどもある。
しかしコハクが足を止めることはない。物怖じすることなく岩肌へとりついたとおもったら、わずかな出っ張りを足場として、軽快にこれを登ってゆく。
「ずっと舟の上だったから、なまった足腰に喝を入れるのにちょうどいい」
身軽なサルですらもが近寄ろうとはしないような難所を、平然と越えていく山狗。
途中、岩肌の割れ目より自生している木の枝が突き出ているところに差しかかったところで、これはひょいとかわす。踏んで跳躍の足しにしようとしたのだが、根元にトリの巣があって、腹をすかせた雛たちがピーチク鳴いていたからである。
おもわぬ来訪者に驚いた親鳥たち。あわてて巣に戻ってくるのを横目にコハクは崖を登り続ける。
ようやく終点。
かと思えばそこは出っ張り部分にて、崖はまだ上へと続いている。
しかしコハクの顔は上ではなくて正面を見ていた。
洞窟がぽっかりと口を広げている。奥から風が流れてきており、かすかに濃い緑と鉄のニオイもまじっている。
「鉄を掘るために作った坑道……ではないか。どこにも人の手が入っている形跡がない。とすればこのニオイはこの洞窟を抜けた先から漂ってきているのか」
だとすれば山向こうの内地への近道になる。
さいわいにして洞窟の天井は高く、幅もある。万が一、この中で戦いとなっても充分に動ける。暗闇も山狗の目をもってすれば問題ない。もしも進んでダメならば引き返せばいいだけのこと。
いい加減に崖登りにも飽きてきたところだし、コハクは試しに行ってみることにした。
◇
ぽたり、ぽたりと、落ちる雫。
静寂の洞内、ぴちゃんと跳ねる水音がよく響く。
暗がりでもぼんやり光る乳白色。のっぺりとした独特の岩肌。上からも下からも、岩のつららが無数に乱立している。先端が鋭い。うっかり崩れて落ちてきたら、たちまち串刺しになりそう。
洞窟の内部は鍾乳洞となっていた。
生き物の気配はない。とても静かな世界……。
細かい脇道は多く入り組んではいるものの、大きな道は限られており、そこを進むだけならば迷うことはない。
幻想的な世界を歩いているうちに、いつしか吐く息が白くなっていた。
厳しい冬の凍てつく寒さとはちがう、足下から這い上がってくるかのような冷え。じりじりと周囲の岩に体温が奪われている。肉球越しにそれを感じて、コハクはやや顔をしかめた。
「足裏の感覚が少し鈍くなったか。血の巡りも悪くなっている。山狗でもこれだとすると、人間がたいした装備もなく立ち入れば、あっという間に足がやられて動けなくなるだろう。だからこそトリやコウモリどもも、ここには近寄っていないとみえる」
おかげで糞などが落ちておらず内部はきれいなものだが、あまりのんびりともしていられない。消耗して動けなくなったら、おしまいだ。
そこでコハクは様子見はやめにして駆け出す。いっきに洞窟を抜ける所存。
◇
ゆるやかな下り坂をひたすら降りてゆく。進むほどに気温も下がってゆく。ついには吸い込んだ空気が肺に痛いぐらいほどにもなる。
それでもかまわず突き進んで行くと、ある地点を境にしてゆるやかな上り坂へとかわった。
風の流れを頼りに前へと進むうちに、ふわっと空気が弛緩した。
張り詰めていたものが溶解し、たちまち霧散、一転してぐんぐん温かくなっていく。
彼方から漂ってくる鉄のニオイはあいからず微細なもの。でも緑の気配の方はずんと濃くなるばかり。
やがて前方の闇に光が浮かぶ。
出口だ。
ある程度まで近づいたところで、走るのをやめたコハクはゆっくりと歩く。ずっと洞窟の闇の中に身を置いていたがゆえに、それに慣れきった目。いきなり明るい場所へと飛び出したら目が眩んでしまう。これを防ぐための用心。
洞窟を抜けた先には森が広がっており、その中央には一本の大樹の姿があった。
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