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その百十三 怒龍
しおりを挟む駆け続けていた山狗ビゼンがいきなり反転。
背後から追いすがっていた禍躬ジャナイは対応しきれない。
正面から交差する刹那、左目に激痛が生じジャナイが苦悶の声をあげる。駆け抜けざま、ビゼンの爪による一閃。
怒ったジャナイが尾にて薙ぎ払おうとするも、そのときにはすでに山狗の姿は離れており、ふたたび前方を駆けていた。
すっかり頭に血がのぼったジャナイ「おのれ、こしゃくなっ!」猛然と追跡を再開。ムキになるあまり、気づいたときには門を潜って街の外へと飛び出していた。
街の外へと逃げた山狗ビゼンを追う禍躬ジャナイ。
勢いのままに門から出たところで、左の視界の片隅にて何かが蠢いたような気がした。しかし左目はビゼンに傷つけられており、ぼやけてよく見えない。
かとおもえば確認する間もなく、喉に鋭い衝撃が走る。
槍による刺突。
気配を完璧に殺し、物陰に潜んでいた緒野正孝の一撃。「しっ」気合いの込められた息吹きとともにくり出された天霊矛。深緑色をした穂先がジャナイの喉笛へとズブリ突き立つ。だがこれで終わりではなかった。槍を持つ手に力を込めて、ぐっと腰を落とし踏ん張る緒野正孝。しなる槍の長柄、刃が斬り裂いたのは蛇体。
これはジャナイ自身のせいでもあった。前へ前へと移動していたがゆえに、みずから傷口を広げて喉から腹へと裂傷をこさえることになってしまった。
腹を裂かれたジャナイが血をまき散らしては身悶える。
とはいえ傷そのものはさほど深くはない。内臓にまでは達していない。
だが屈辱であった。たかだか人間風情の振るう槍に手傷を負わされた。
そのことがジャナイより完全に冷静さを失わせる。
「殺す、殺す、殺す、殺す、ころす、コロス」
黒い感情にとり憑かれて猛り狂う禍躬。大きな蛇体が暴れる。
傷口が開くのもかわまずに、尾を打ち払い、頭から突っ込み、噛みつこうとしたり、牙より毒液をまき散らしたり……。
こうなるともう手に負えない。
猛攻をいなしつつ、緒野正孝はじりじり後退。山狗のビゼンもこれを手伝う。
◇
門前を走り抜け、吊り橋を渡り、峠をくだったところで、脇の森へと飛び込み、進路をとる緒野正孝と山狗のビゼン。
少し遅れて禍躬ジャナイもこれに続く。
猛追する禍躬。木々を薙ぎ倒し迫る。だがその身は進むほどにボロボロになっていく。なぜならたまさか緒野正孝の槍が貫いていたのが、蛇体の移動を補助する潤滑油のような体液を出す器官であったから。体液の恩恵を失ったことにより、自重と生じる摩擦にて動くほどに藁で編んだかのような体表がボロボロになっていく。
にもかかわらずかまわず追跡を続けるジャナイ。完全に我を忘れていた。
一方で逃げる緒野正孝らも必死である。
捕まれば最後である。なにより理性を失くした獣は恐ろしい。突拍子もないことを平然とするのだから。
生い茂る枝葉、乱立する木々、地面にうねる根たち。
お世辞にも人間にとってはよい足場とは言えない。にもかかわらず緒野正孝が駆け続けていられたのは、山狗ビゼンの先導があったればこそ。
なるべく起伏がなく、足をとられることがないような場所を選んで誘導してくれている。
それでもギリギリ、うっかり転べばたちまち追いつかれてしまうことであろう。
まるで生きた心地のしない状況がしばし続く。
◇
唐突に視界が開けた。
森が終わり、姿をみせたのは青い空と広い海。
場所は海沿いの断崖の上。人の身ではこれ以上はどこにも行けないという終点。
もはや逃げ場はない。ようやく獲物を追い詰めたと、禍躬ジャナイがチロリと舌舐めずり。
かま首をもたげてはにじり寄り、いざ喰らってやろうと大口を開ける。ひょうしに牙から零れる毒液が地面にぽたりと垂れた。
けれどもその時のことであった。
緒野正孝と山狗ビゼンがばっと地面に伏せたかとおもえば、続けて海原に鳴り響いたのは轟音。
それは人間たちからの反撃の狼煙。
沖合に停泊していた軍船・葉魚。
これに搭載されている長距離砲撃火筒・怒龍が火を噴く。
怒龍は精密射撃が可能な大砲。対禍躬用の決戦兵器として、湖国と紀伊国合同にてひそかに開発されていた。特殊な弾頭、威力は申し分ないのだが、強力過ぎるがゆえに連発は不可。筒身がもたないのだ、歪んでしまう。せいぜい二発撃つのが限界。それに設置型ゆえに効率的に運用するのには知恵がいる。なにより扱いが難しい。
怒れる龍の名を冠するのは伊達ではない。
そんな龍を御する射手は伊瑠であった。
放たれた弾頭、狙いあやまたず。
禍躬ジャナイの口の中へと吸い込まれて、頭部を粉砕っ!
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