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その八十六 降臨

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 氷瀑の底へと消えた大狒々ザクロマダラ。
 コハクは救出した冬毬を背に乗せて帰路につく。
 朽ちた神殿の内部を抜け、表の広間へと向かっている道すがら、もぞもぞと目を覚ました冬毬。

「うぐっ、ひぐっ」

 コハクの背にヒシとしがみつき、毛に埋もれるようにして冬毬が泣きじゃくっている。それも無理からぬこと。ずっと気丈に振る舞っていたが、内心ではさぞや心細かったことであろう。安堵とともに堪えていた感情がいっきに溢れ出し、それがとめどもない涙となっている。
 だからコハクは娘の気がすむまで背中を貸してやることにした。

  ◇

 コハクと冬毬が表の広間へと到着するのとほぼ時を同じくして山門をくぐったのは、猿谷にて殿(しんがり)を引き受けてくれていた白狼オウラン。ようやくあちらをやっつけて駆けつけたところであった。

「おっ、無事に風の民の娘を取り戻したんだね、コハク。よくやった。で、ザクロマダラの野郎はどうした?」

 神妙な面持ちにて首を横に振るコハク。
 その姿を受けてオウランが「そうか、逝っちまったか。まぁ、さんざんに好き勝手にやったんだから、最期はこんなもんだろうよ」とぼそり。
 けっして仲が良かったわけではない。むしろいがみ合うことの方が多かった。
 それでも古馴染みが去るのを見送ることになって、オウランはややしんみり。けれどもそんな態度はすぐに脇へと押しやり、顔をあげてケロリとして言った。

「さてと、用が済んだことだし長居は無用だよ。しっぽまで凍えて尻が冷えちまう。とっとと繭玉山に帰……」

 そこでハッとしたオウラン。言葉を中断し朽ちた神殿の奥の方へと険しい目を向けた。
 コハクもふり返っては、同じ方を凝視する。
 まるで無数の毛虫たちが一斉に這いあがってくるかのような、ゾワリゾワリとしたイヤな感覚に襲われて、山狗の子と白狼の首のうしろの毛が逆立つ。
 たちまちすべてが解決したかのように弛緩した雰囲気が霧散した。場の空気がピィンっと張り詰める。

 直後に聞こえてきたのは、地の底から響くかのような雄叫び。

 怒りや嘆きが入り交じった声は、錆びた鉄同士をこすり合わせたかのような不快な響きを持っている。
 びりびりと大気が震えた。
 赤嶺の山々そのものまでもが震えているかのよう。

  ◇

 冷気が霞むほどの異様な気配がずんずんと強まっては、一帯に満ち充ちていく。
 警戒しながら背後に冬毬を庇い立つ二頭。
 その視線が釘づけとなったのは、正面の社殿の傾いだ屋根の上。
 一番高いところから、こちらを見おろしている大狒々の姿があった。

「あれは……ザクロマダラかい? しばらく会わないうちに、またずいぶんと男前になったもんだねえ」

 先の戦いにおいて山狗の爪にて真一文字に斬り裂かれた目元を、軽口にてそう揶揄したオウランではあったが、相手から発せられる覇気にやや気圧されている。
 樹液を煮詰めて凝り固めたかのような琥珀色をしたコハクの双眸、それが見つめていたのは相手の身体の変化。
 黒に近しい茶色であった毛並みが、汚れた雪のような灰色へと変貌してしまっている。なのにマダラ模様はそのままにて、熟したザクロ色をした地肌の斑紋がいっそう目立ち、まるで毒キノコのよう。

  ◇

 氷瀑の滝つぼへと落ちた大狒々。そのまま果てたのかとおもいきやさにあらず。半成りが本成りとなり禍躬となって地獄のふちより蘇っては、舞い戻ってきた。
 もちろん獲物をかっさらい、我が身をこんな目に合わせた憎い相手へと復讐するために。

「一匹増えているな。このイケすかないニオイは……きさまは繭玉山のおいぼれオオカミ。そうか、そうだったのか。すべてはきさまの差し金だったのだな」

 しわくちゃの顔をいっそうくしゃりとさせながら、鼻をひくひく。ぶつぶつ独りごちている禍躬ザクロマダラ。どうやらオウランがコハクをけしかけたと誤解している様子。
 いきなりのご挨拶に顔をしかめるオウラン。

「ちがうよ、と言ったところでその様子だと聞く耳をもたなさそうだね。見た目も気配もずいぶん変わっちまったみたいだが、中身は腐ったまんまか。やれやれ、こうなると長生きするのも考えもんだねえ。見苦しいったら、ありゃしない」

 言うなり口元の牙をのぞかせ、獰猛な表情となった白狼。「いいだろう。知らぬ仲というわけでなし。このあたいが、繭玉山の犬神さまが引導を渡してやるよ」と吠えた。

 だがコハクは見逃さなかった。オウランの四肢が微かに震えているのを。これは怯えからくるものではない。疲労だ。オウランは高齢につき、自分の縄張り境の峠から赤嶺まで駆け通しの上に、猿谷にいた大勢のサルたちを相手にして、多勢に無勢での大立ち回りを演じた。
 相当に疲れているはず。ほとんど余力はなかろう。この上、禍躬と成った大狒々と戦うには、あまりにも状態が悪すぎる。
 そこでコハクは言った。

「オウランは冬毬を頼む。彼女が近くにいたら、戦いに集中できないから」

 まずは自分が単独でひと当たりする、という山狗の子。
 これを受けて白狼は「そうかい、じゃあ、お言葉に甘えるとしようかね」と素直に引き下がるなり、ひょいと冬毬の襟首をくわえて遠ざかっていく。

 仲間と離れてひとりきりとなったコハクの前に、ドスンとザクロマダラが落ちてきた。
 新たに降臨した禍躬。
 毛の色だけでなく、全身の傷が塞がっており、体躯もひと回りほど大きくなって、いよいよクマと遜色ないほど。それでも目だけは回復しなかったらしいが、それが戦いの趨勢にどうのように影響するのかは、いまのところわからない。

 最初のときと、氷瀑の崖でと。
 先の二回と合わせて三度対峙することになった、ザクロマダラとコハク。
 にらみ合っていたのはわずかばかり。
 禍躬が大きく跳躍し、禍躬狩りの獣は駆け出した。


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