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その八十二 大狒々と山狗

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 突如として山中に響いた獣の咆哮により、動きを止めたザクロマダラ。冬毬の身を掴んだままで山門の方へと顔を向けた。
 闇の彼方よりせりあがってくる気配。猛る何者かがこちらへと向かってきている。その正体を見極めんと大狒々は目を細め凝視する。
 そのときのことであった。
 びゅうっと風が唸る。
 突風だ。顔を打ちつけるかのように吹く。
 雪塵が舞い、ザクロマダラはとっさに己の目元を手で隠す。けれども庇ったその手をおろそうとしたところで、闇の中から浮かんできたのは鋭い爪と牙。
 大狒々のけむくじゃらな手の甲が視界をさえぎった一瞬、朽ちた神殿の山門を駆け抜け、敷地内へと飛び込んだのは山狗の子。
 とたんにコハクの視界に入ったのは、いままさに生贄の娘を手にかけんとしていた大狒々の姿。
 コハクは大きく跳躍、ほんの数歩にていっきに接敵し、大狒々の首を狙う。

 斬っ!

 血飛沫が舞う。
 が、流れた血の量はわずか。
 間一髪のところでコハクの強襲に気がついたザクロマダラ。とっさに冬毬を放りだし、のけぞったことによって、からくも牙をかわし、どうにか右の長腕に爪のかき傷を負うだけで難を逃れる。
 一方でコハクは解放された冬毬へとわずかに注意がそれてしまったがゆえに、好機を逃してしまった。

  ◇

 乱暴に投げだされて、石床にて「うぅ」とうずくまっている冬毬。
 これを庇うようにして前に立つ山狗の子。
 対する大狒々ザクロマダラは傷つけられた右腕をぺろりと舐めながら、ぎょろり。

「キサマ、何者だ。いったいどういった了見で邪魔をする。このオレを狒々神ザクロマダラと知っての狼藉か」
「山狗のコハク、義によって参上した。悪いけど、この子は返してもらう」
「何を勝手なことを。その娘は里の人間どもがオレに捧げた供物。どう扱おうがオレの勝手だ。それを横から掠め取ろうとは不逞野郎だ」

 言うなり怒気もあらわ、全身の毛を逆立てる大狒々。赤い双眸をいっそう爛々と光らせては、歯茎をむき出しにして山狗の子を威嚇する。
 その視線をはっしと受け止め、一歩も引かないコハクではあったが、内心では若干の戸惑いが生じていた。
 なぜなら目の前の相手からは、獣臭に混じってわずかばかり懐かしくも忌まわしいニオイを感じていたから。

 それは山狗の宿敵である禍躬の発するもの。
 たしかに大狒々ザクロマダラは異形ではある。人間の目にはさぞや奇異な存在に映ることであろう。でもだからとて異質ではない。あり方は獣の範疇を逸脱しているが、存在そのものは動物にすぎない。ちょっと大柄なサルだ。
 なのにこれはいったい……。

「ひょっとして……、ザクロマダラはこれから禍躬に成ろうとしている?」

 この世のすべて、天地を創造せし者。
 それを神と呼び、大地に生きる者たちはこれを敬う。
 ヒト以外の生き物が成りし者。
 これを禍躬(かみ)と呼び、地に生きる者たちはこれを畏れる。悪戯に破壊と暴虐の限りを尽くす、生きとし生ける者らの敵。災厄のごときその身。

 禍躬がどうして発生するのか、その真実はよくわかってはいない。
 ただ昔から大地の気が濃厚な場所にて成ると伝わっている。
 たしかにここ赤嶺の一帯は人外魔境と化しているせいで、自然の色が濃くはあるが、それならば繭玉山の辺りも似たようなものなのに。

 現在のザクロマダラは、いわば半成り状態。
 そう推察したコハク。樹液を煮詰めて固めたかのような双眸が、より色味を増す。
 宿敵を前にして内より滾る山狗の血にて体が熱くなる。
 けれどもそれと同時にわずかばかりの不安が脳裏をかすめる。
 以前とは状況がちがう。現在、コハクには火筒を持つ頼れる相棒がかたわらにいない。
 禍躬狩りと山狗は組となり対となってこそ本領を発揮する。だが忠吾はもういない。
 新たな人物を仰ぐつもりもない。コハクにとって主人は忠吾のみにて、相棒もまた彼だけ。だからこれからはひとりきりで禍躬と戦わねばならぬ。頼れるのは己が爪と牙のみ。

「半成りを相手にして臆している場合じゃない。悪いけど、あんたを踏み台にして、ぼくは先へと行かせてもらう!」

 言うなり猛然と駆け出した山狗の子。
 地を這う疾風と化し大狒々のもとへ迫る。

「生意気なっ! 生きながらに毛皮をはいで、台座の敷物にしてやる!」

 ザクロマダラが二本の長腕を振りかぶり、返り討ちにせんとする。
 かくして大狒々と山狗の子の戦いが幕を開けた。


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