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その八十 猿谷の攻防
しおりを挟む狒々神の花嫁を運ぶ一行が、朽ちた神殿へと向かい参道を登り始めたのに前後して、猿谷の入り口へと到達したのは、山狗の子と白狼の二頭連れ。
とたんに谷全体がざわつきだした。
けれども二頭はかまうことなく、ずんずん足を踏み入れる。
しばらく進んだところで頭上より降ってきたのは「繭玉山の犬神さまとお見受けいたす。御方がいったいこの地に何用か?」との声。
姿もみせずに問うたのは、この地に生息するサルのうちの一頭であろう。
音が周囲の岩肌に反響している。コハクたちのところからでは相手の位置はわからない。
しかしオウランはこの声を無視して歩き続けたもので、コハクもそれに続いた。
◇
気配はあれどもサルたちは隠れ潜み、いっこうに姿をみせない。視線ばかりが八方より突き刺さる。
谷の中ほどまできたところで、新たに降ってきたのは木の箱。カラの箱はオウランたちの前方にゴトリと落ち、地面に当たるなりバラバラに砕けて壊れてしまった。
箱にコハクたちの目が奪われているうちに、気がつけば周囲にはサルどもがぞろぞろり。すっかり囲まれている。
みな手には石くれや木の棒、つららなんぞを持って武装している。
うちの代表格とおもわれる体躯のいいサルが言った。
「とっとと帰れ、おいぼれオオカミ。大狒々さまの許しなき者は、この先へと立ち入ることまかりならん!」
先ほどの丁寧な口調はどこへやら。一転しての粗野な物言い。おそらくはべつのサルなのであろうが、これにオウランがくつくつ笑いだす。
「どこに行こうがあたいの勝手さ。そもそもの話、どうしてこのオウランさまが、ザクロマダラ風情の指図を受けなくちゃいけないんだい? それに……」
いったん言葉を切った白狼。半盲の瞳をすーっと細めたかとおもえば、声の調子をいっとう落とし、ドスの効いた声で告げる。
「それにおまえたち……。他人さまに武器を向けるという意味を、ちゃんとわかっているんだろうね? 誰かを害し蹂躙しようとする者は、それ以上のことを相手からやり返されたとて文句は言えないよ」
とたんにオウランが獰猛な表情を浮かべる。白狼がにぃと顔を歪めて笑ったひょうしに、口の中に並んだ牙があらわとなった。
◇
降り注ぐ石礫。その下をかいくぐり、いっきに接敵したのは白狼。これを手にしたつららにて突こうとするサル。二頭が交差したとおもった次の瞬間には、飛び散った鮮血が雪に赤い染みを描き、首筋を噛み千切られたサルがどうと倒れ伏していた。
勢いのままに近くにいた小集団へと飛び込んだ白狼が、これをも蹴散らす。
すでに十頭以上ものサルをやっつけている。
だというのに、敵勢はまるで引く素振りをみせない。
「それだけザクロマダラの野郎を恐れているということか」
血濡れた口元を舌でぺろり、つぶやいたオウランのかたわらにコハクの姿はない。
白狼が「グズグズしていたら手遅れになる。ここはあたいにまかせて、あんたは先に行きな」と山狗の子を急がせたから。
かくしてひとり残ったオウラン。全身を返り血で朱に染めながら孤軍奮闘を続けるも、個対群れの戦い。己の年齢的なことを考慮せずとも、いずれはジリ貧となろう。しかも多勢に無勢の上に、相手勢力の首魁がこの場にいないことがやっかいであった。
つねの集団戦のように頭を獲ったところで止まらず散らず。大狒々に力と恐怖で支配されているから、逃げるという考えもない。引き時を知らない集団は、全員が死兵と化している。
母ザルに抱かれた子ザルまでもが歯をむき出しにして、手にした尖った小枝にて刺そうとしてきたのには、オウランも心底辟易させられたものである。
「適当なところで切り上げて、さっさとコハクを追いかけたいんだが、この調子だと当分は動けそうにないねえ」
顔面へと飛んできた石をひょいとかわし、オウランは最寄りの敵めがけてふたたび駆け出す。
白狼が猛り吠えるたびに、血煙があがり、サルの絶叫が谷に響きこだまする。
さりとてサルどももむざむざと殺られていたわけじゃない。仲間の犠牲を越えては、わずかながらも白狼に手傷を負わせ、これを重ねては、相手の命を着実に削っていく。
流された血と転がる骸たち。怒号と悲鳴が鳴りやまない。命の灯火が次々と消えていく。
迫る夕闇がすべてを呑み込んでいくも、猿谷の攻防はまだ終わらない。
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