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その七十三 風の民の娘

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 触れたとたんに溶けて消えてしまった。
 鼻先にはらりと落ちてきたのは粉雪。
 見上げた先には白と灰色が混じった雲が重く垂れこめており、いまにもドサリと転がり落ちてきそう。

「いよいよ降り出したか……」

 つぶやいたコハクはぺろりと鼻先についた雫を舐めて、ふたたび歩き出す。
 ひとり向かうのは湯が湧いているところ。
 傷はとうに癒えている。だがオウランからは「億劫だろうがしばらくは通いな。自分では治ったつもりでも、見えないところに負った傷はぞんがいしぶといからね」と言われたからである。なんでも「若いうちはへっちゃらでも、のちのちに不養生のツケをしっかり支払わされる」とのこと。
 年長者の忠告に従い、コハクはこまめに湯場へと足を運んでいた。

  ◇

 コハクが世話になっている白狼オウランの洞窟から、山沿いに森を西へと進むことしばし。
 じきにやたらと青々とした木々が生い茂る区画へと到達する。とたんにじとりと汗ばむ肌。そろそろ世間では冬の兆しが顕著になってきているというのに、ここだけはいまだ夏の盛りのよう。
 すべては湧いてくる湯と、地面の下に篭っている熱のおかげ。
 その中心にあるのが湯場。
 ゴツゴツとした岩たちに囲まれた開けた場所に、大中小、三つの池がある。深さは広さに比例しており、小さいのではせいぜい人間の子どもの腰ぐらいしかないが、大きい池では大人でも足がろくに届かないほどもある。

 いつ、誰が決めたのかは定かではないが、ここでの争いごとは御法度。
 ゆえに湯治にきている山や森の住人たちも、湯に浸かったり、温かな岩盤の上に寝転がったりしながら、おもいおもいにのんびり過ごす。

 湯場へと到着するなりコハクは首をかしげる。

「あれ? 誰もいないや」

 いつもはサルの群れやタヌキの家族なんぞがいてとても賑やかなのに、今日は静かなもの。
 昼と夜の狭間という中途半端な時間帯のせいか、あるいはみな本格的な冬ごもりの準備に追われているのか。
 なんにせこんなのは、はじめてのこと。

「こんなことならオウランも誘えばよかった」

 彼女は湯自体は好きでも嫌いでもないのだが、騒々しいのがちと苦手。目が不自由な分、耳に頼りがちなせいで聴覚が鋭敏になっている。そのせいで小動物どもがギャンギャンお喋りする声がどうにも耳障りらしい。「あんなのにつきあってたら、頭が割れちまう」とはオウラン。
 だからコハクはひとりで来たのだが、よもやの貸し切り状態。
 山狗の子はやや困惑しつつも、中くらいの池へとゆっくり身を沈めていく。

  ◇

「ふぃー」

 いい湯に身をゆだねていると、芯から身体がほぐれたような気分になり、自然とそんな声が零れてしまう。
 縁の岩に顎を預けながら、だらりと過ごすコハク。両耳も濡れそぼっては、でろんと垂れている。
 が、その両耳が急にピンと立つ。
 何者かがこちらに近づいてくる。

「軽い足音、でもキツネやタヌキじゃない。サルに少し似ているけど、そのわりにはちょっと重いし、足の進み具合が一本調子過ぎる。これは……、ひょっとしてヒトの子ども? でもどうしてこんなところに」

 オウランより「時おり、酔狂な人間がわざわざ足を運ぶこともある」とは聞かされている。
 だからとてここは森の奥、子どもがひとりで来るような場所ではない。
 なんにせよ奇妙な気配を漂わせている。イヤな感じはしないけど、うなじのあたりがゾワゾワする。相手の正体がわからない以上は、警戒すべきだろう。
 コハクは身を起こし、湯からあがった。

  ◇

 周囲に充ちている湯気にまぎれて身を隠し、コハクはその何者かが姿をみせるのをじっと待つ。
 じきに白煙の向こう、小池の方に影が浮かんだ。
 やはり小さい。
 子ども、それもたぶん十かそこらの娘。
 しゅるしゅると衣擦れの音がする。娘が帯を解いて服を脱いでいる。
 その様子は湯治客にしかおもえない。ゆえに自分のかんちがいであったかとコハクは判断しかけたのだが……。

 一瞬の湯気の切れ間。
 互いの姿がわずかに露見するも、それに合わせてぺこりとお辞儀をしてきた白髪頭の娘に、山狗の子はどきり!
 完璧に気配を消して、岩場の隅に身を伏せていたというのに、相手に気取られていた。
 隠形の技が破られたことに非常に驚いたコハクは、じりじりと後ずさり。会釈し返す余裕もなく、そそくさと退散する。

 あわてて洞窟に戻るなり、湯場で人間の娘に遭ったことをコハクが報告すると、「ああ、そいつはたぶん風の民の娘だろう」とオウランは言った。

 風の民とは、いい鉱石がとれる地を巡る流浪の鍛冶師集団のこと。
 近年、冬場になると繭玉山麓の里へとやってきては、春先まで滞在していく。

「ふ~ん、連中、今年も来たんだねえ。まぁ、あの子はちょっと変わっているけど害はないから、放っておけばいいよ」

 白狼はこともなげにそう言うが、先ほど遭遇したときに感じたゾワゾワを思い出し、山狗の子は眉根を寄せずにはいられなかった。


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