上 下
71 / 154

その七十一 魚捕り

しおりを挟む
 
 風のニオイが変わった。
 コハクがオウランのもとに身を寄せてから、はや季節が夏から秋へと移りかわろうとしている。漂流中に負った傷はあらかたすでにふさがっており、体力もずいぶんと戻ってきた。しかし芯に残る倦怠感がなかなかとれない。おそらくは気力が戻っていないせいとおもわれるが、そのせいでともすればぼんやりとしていることが多い山狗の子。
 そんなコハクをオウランは「たまには体を動かさないとな。狩りにいこう」と誘った。
 だが向かったのは山や森ではなくて、川の方。

 いまの時期は、海から産卵のために遡上してくる魚のおかげで、川はとても盛況となる。
 中流から下流域の方では里人らが竹で編んだ筒を仕掛けたり、石を積んで分流を作っては誘い込んだり、簗簾(やなすだれ)と呼ばれる川床を設置しては、工夫を凝らしては漁に励んでいる。
 だが魚たちとて負けてはいない。数にものをいわせた正面突破にて、人の手をかいくぐっては上流域を目指す。
 だがようやく辿り着いたそちらでは、飢えた獣たちが舌なめずりで待ちかまえている。
 それらの試練をも超えた強い者だけが産卵の栄誉を手に入れ、己が血を次世代へと残す。

 すでにかなり冷たくなっている川の中。
 そっと入っていく白毛の大オオカミ。
 膝下あたりまでの深さのところまで進むと、その場にてじっと佇むオウラン。半盲に近しい両目は閉じ、呼吸を最小限にして、耳をピンと立てる。
 集中。四肢を通じて水の揺らぎに神経を尖らせつつ、水中を素早く動く者の気配を追う。

 自然、ヒト、獣、鳥、魚……。

 過酷な生存競争を勝ち残り、同胞らの屍を超え、数多の試練を潜り抜けてきた猛者。
 牙も爪も持たぬ身とて弱かろうはずがない。ましてや水の中は彼らの主戦場。陸に住む者が手を抜ける道理はない。
 まるで岩にでもなったかのように動かなくなったオウラン。
 その前にふわりと舞い落ちたのは一枚の葉。
 水面に小さな波紋が起こる。
 瞬間、オウランが動いた。右の前足による横一閃。水面を斬り裂き、飛沫がパッと散ったとおもったら、岸には打ち上げられた一尾の姿があった。

 そんな調子でオウランが仕留めた魚は全部で五尾。
 見事な早業もさることながら、コハクが目を見張ったのは、魚たちが陸へと打ち上げられたときにはすでに絶命していたこと。水中を疾走する相手を的確に捉えて、前足にてはじくのと同時、爪にて急所をひと突き。殺られた方は何かを感じる暇もなく昇天したはず。恐ろしくも慈悲深い殺しの技。

「さて、あたいはこれぐらいで充分かね。ほら、次はコハクがやってみな」

 オウランより言われて、「よし」とコハクも意気込んでは川の中へと。
 コハクとて忠吾との泳ぎの鍛錬の中で、魚捕りはしたことがある。だからこれぐらい楽勝だと考えていたのだが、しかし……。

「あれ? あれれ?」

 魚影を捉えて、間合いに入ってきたところで、鋭い前足での斬撃を見舞うも、そのことごとくが空を切る。いや、この場合は水を切るというのが正しいか。
 コハクの一撃を、ひょいとかわす魚たち。悠然と脇を抜けて、さらなる上流域へと向かっていく。

 そんな山狗の子の姿を捕ったばかりの魚をかじりながら見ていたオウランが「カカカ」と笑う。

「どうだい? 手強いだろう。ここまで辿り着いている時点で、並みの魚じゃないんだよ。つねのやり方ではろくに触れることもかなわないだろうさ。もっと気合いを入れな、相手に失礼だろ。それにそんな寝ぼけた攻撃じゃあ、朝までかかったところで一尾も捕れやしないよ」

 相手に失礼だと言われて、ハッとしたコハク。
 いつのまにか自分が一方的な捕食者とかんちがいをし、奢っていたことに気がつかされた。
 ちがう、そうじゃない。
 たしかに狩る者と狩られる者という立場はある。強き者と弱き者がいる。だが野生において両者の関係は対等。牙、爪、足……、各々がもっとも得意としている武器で必死に戦っている。懸命に生きている。けっして片方がもう片方を一方的に虐げるようなものではない。

 オウランの言葉に自分が何者なのかをあらためて思い出したコハク。それとともに脳裏にありありと浮かんだのは、忠吾との在りし日のこと。
 あれはたしか銀峰にてカモシカを狩ったとき……。

『いいか、コハク。命を喰らうということは、その命を己がうちにとりこみ宿すということだ。命も想いもその一切合切を引き受けて背負い、ともに生きていくということだ。だからけっして感謝を忘れてはいけない。敬意を忘れてはいけない。それがたとえ禍躬であろうともだ。
 憎しみで狩りをしてはいけない。なぜなら憎しみは心を惑わし、まなこを曇らせる。そうなれば、相手へと向けた牙や爪はたちまち己に跳ね返るということを、よぉく覚えておけ』

 大事な人から託された、とても大切なことだったはずなのに。
 それを忘れるだなんて自分は何をしているのか。
 悔しさと悲しさ、情けなさでじわり歪む視界。
 コハクは冷たい水に顔を突っ込み、腑抜けた己に活を入れなおすと、ふたたび魚捕りへと挑戦する。
 そんな山狗の子にオウランは笑みを浮かべた。


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

懐妊を告げずに家を出ます。最愛のあなた、どうかお幸せに。

梅雨の人
恋愛
最愛の夫、ブラッド。 あなたと共に、人生が終わるその時まで互いに慈しみ、愛情に溢れる時を過ごしていけると信じていた。 その時までは。 どうか、幸せになってね。 愛しい人。 さようなら。

公爵様、契約通り、跡継ぎを身籠りました!-もう契約は満了ですわよ・・・ね?ちょっと待って、どうして契約が終わらないんでしょうかぁぁ?!-

猫まんじゅう
恋愛
 そう、没落寸前の実家を助けて頂く代わりに、跡継ぎを産む事を条件にした契約結婚だったのです。  無事跡継ぎを妊娠したフィリス。夫であるバルモント公爵との契約達成は出産までの約9か月となった。  筈だったのです······が? ◆◇◆  「この結婚は契約結婚だ。貴女の実家の財の工面はする。代わりに、貴女には私の跡継ぎを産んでもらおう」  拝啓、公爵様。財政に悩んでいた私の家を助ける代わりに、跡継ぎを産むという一時的な契約結婚でございましたよね・・・?ええ、跡継ぎは産みました。なぜ、まだ契約が完了しないんでしょうか?  「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいませええ!この契約!あと・・・、一体あと、何人子供を産めば契約が満了になるのですッ!!?」  溺愛と、悪阻(ツワリ)ルートは二人がお互いに想いを通じ合わせても終わらない? ◆◇◆ 安心保障のR15設定。 描写の直接的な表現はありませんが、”匂わせ”も気になる吐き悪阻体質の方はご注意ください。 ゆるゆる設定のコメディ要素あり。 つわりに付随する嘔吐表現などが多く含まれます。 ※妊娠に関する内容を含みます。 【2023/07/15/9:00〜07/17/15:00, HOTランキング1位ありがとうございます!】 こちらは小説家になろうでも完結掲載しております(詳細はあとがきにて、)

夫から国外追放を言い渡されました

杉本凪咲
恋愛
夫は冷淡に私を国外追放に処した。 どうやら、私が使用人をいじめたことが原因らしい。 抵抗虚しく兵士によって連れていかれてしまう私。 そんな私に、被害者である使用人は笑いかけていた……

【完結】物置小屋の魔法使いの娘~父の再婚相手と義妹に家を追い出され、婚約者には捨てられた。でも、私は……

buchi
恋愛
大公爵家の父が再婚して新しくやって来たのは、義母と義妹。当たり前のようにダーナの部屋を取り上げ、義妹のマチルダのものに。そして社交界への出入りを禁止し、館の隣の物置小屋に移動するよう命じた。ダーナは亡くなった母の血を受け継いで魔法が使えた。これまでは使う必要がなかった。だけど、汚い小屋に閉じ込められた時は、使用人がいるので自粛していた魔法力を存分に使った。魔法力のことは、母と母と同じ国から嫁いできた王妃様だけが知る秘密だった。 みすぼらしい物置小屋はパラダイスに。だけど、ある晩、王太子殿下のフィルがダーナを心配になってやって来て……

幼なじみとセックスごっこを始めて、10年がたった。

スタジオ.T
青春
 幼なじみの鞠川春姫(まりかわはるひめ)は、学校内でも屈指の美少女だ。  そんな春姫と俺は、毎週水曜日にセックスごっこをする約束をしている。    ゆるいイチャラブ、そしてエッチなラブストーリー。

【完結】「心に決めた人がいる」と旦那様は言った

ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
「俺にはずっと心に決めた人がいる。俺が貴方を愛することはない。貴女はその人を迎え入れることさえ許してくれればそれで良いのです。」 そう言われて愛のない結婚をしたスーザン。 彼女にはかつて愛した人との思い出があった・・・ 産業革命後のイギリスをモデルにした架空の国が舞台です。貴族制度など独自の設定があります。 ---- 初めて書いた小説で初めての投稿で沢山の方に読んでいただき驚いています。 終わり方が納得できない!という方が多かったのでエピローグを追加します。 お読みいただきありがとうございます。

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

処理中です...