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その七十一 魚捕り
しおりを挟む風のニオイが変わった。
コハクがオウランのもとに身を寄せてから、はや季節が夏から秋へと移りかわろうとしている。漂流中に負った傷はあらかたすでにふさがっており、体力もずいぶんと戻ってきた。しかし芯に残る倦怠感がなかなかとれない。おそらくは気力が戻っていないせいとおもわれるが、そのせいでともすればぼんやりとしていることが多い山狗の子。
そんなコハクをオウランは「たまには体を動かさないとな。狩りにいこう」と誘った。
だが向かったのは山や森ではなくて、川の方。
いまの時期は、海から産卵のために遡上してくる魚のおかげで、川はとても盛況となる。
中流から下流域の方では里人らが竹で編んだ筒を仕掛けたり、石を積んで分流を作っては誘い込んだり、簗簾(やなすだれ)と呼ばれる川床を設置しては、工夫を凝らしては漁に励んでいる。
だが魚たちとて負けてはいない。数にものをいわせた正面突破にて、人の手をかいくぐっては上流域を目指す。
だがようやく辿り着いたそちらでは、飢えた獣たちが舌なめずりで待ちかまえている。
それらの試練をも超えた強い者だけが産卵の栄誉を手に入れ、己が血を次世代へと残す。
すでにかなり冷たくなっている川の中。
そっと入っていく白毛の大オオカミ。
膝下あたりまでの深さのところまで進むと、その場にてじっと佇むオウラン。半盲に近しい両目は閉じ、呼吸を最小限にして、耳をピンと立てる。
集中。四肢を通じて水の揺らぎに神経を尖らせつつ、水中を素早く動く者の気配を追う。
自然、ヒト、獣、鳥、魚……。
過酷な生存競争を勝ち残り、同胞らの屍を超え、数多の試練を潜り抜けてきた猛者。
牙も爪も持たぬ身とて弱かろうはずがない。ましてや水の中は彼らの主戦場。陸に住む者が手を抜ける道理はない。
まるで岩にでもなったかのように動かなくなったオウラン。
その前にふわりと舞い落ちたのは一枚の葉。
水面に小さな波紋が起こる。
瞬間、オウランが動いた。右の前足による横一閃。水面を斬り裂き、飛沫がパッと散ったとおもったら、岸には打ち上げられた一尾の姿があった。
そんな調子でオウランが仕留めた魚は全部で五尾。
見事な早業もさることながら、コハクが目を見張ったのは、魚たちが陸へと打ち上げられたときにはすでに絶命していたこと。水中を疾走する相手を的確に捉えて、前足にてはじくのと同時、爪にて急所をひと突き。殺られた方は何かを感じる暇もなく昇天したはず。恐ろしくも慈悲深い殺しの技。
「さて、あたいはこれぐらいで充分かね。ほら、次はコハクがやってみな」
オウランより言われて、「よし」とコハクも意気込んでは川の中へと。
コハクとて忠吾との泳ぎの鍛錬の中で、魚捕りはしたことがある。だからこれぐらい楽勝だと考えていたのだが、しかし……。
「あれ? あれれ?」
魚影を捉えて、間合いに入ってきたところで、鋭い前足での斬撃を見舞うも、そのことごとくが空を切る。いや、この場合は水を切るというのが正しいか。
コハクの一撃を、ひょいとかわす魚たち。悠然と脇を抜けて、さらなる上流域へと向かっていく。
そんな山狗の子の姿を捕ったばかりの魚をかじりながら見ていたオウランが「カカカ」と笑う。
「どうだい? 手強いだろう。ここまで辿り着いている時点で、並みの魚じゃないんだよ。つねのやり方ではろくに触れることもかなわないだろうさ。もっと気合いを入れな、相手に失礼だろ。それにそんな寝ぼけた攻撃じゃあ、朝までかかったところで一尾も捕れやしないよ」
相手に失礼だと言われて、ハッとしたコハク。
いつのまにか自分が一方的な捕食者とかんちがいをし、奢っていたことに気がつかされた。
ちがう、そうじゃない。
たしかに狩る者と狩られる者という立場はある。強き者と弱き者がいる。だが野生において両者の関係は対等。牙、爪、足……、各々がもっとも得意としている武器で必死に戦っている。懸命に生きている。けっして片方がもう片方を一方的に虐げるようなものではない。
オウランの言葉に自分が何者なのかをあらためて思い出したコハク。それとともに脳裏にありありと浮かんだのは、忠吾との在りし日のこと。
あれはたしか銀峰にてカモシカを狩ったとき……。
『いいか、コハク。命を喰らうということは、その命を己がうちにとりこみ宿すということだ。命も想いもその一切合切を引き受けて背負い、ともに生きていくということだ。だからけっして感謝を忘れてはいけない。敬意を忘れてはいけない。それがたとえ禍躬であろうともだ。
憎しみで狩りをしてはいけない。なぜなら憎しみは心を惑わし、まなこを曇らせる。そうなれば、相手へと向けた牙や爪はたちまち己に跳ね返るということを、よぉく覚えておけ』
大事な人から託された、とても大切なことだったはずなのに。
それを忘れるだなんて自分は何をしているのか。
悔しさと悲しさ、情けなさでじわり歪む視界。
コハクは冷たい水に顔を突っ込み、腑抜けた己に活を入れなおすと、ふたたび魚捕りへと挑戦する。
そんな山狗の子にオウランは笑みを浮かべた。
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