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その七十 繭玉山
しおりを挟むつねに山頂付近には霞が渦を巻いており、まるで蚕の玉のようであるがゆえに、いつしか繭玉山と呼ばれるようになった場所。
ここを中心として、最寄りの浜の辺りまでがオウランの縄張り。
海と山が近く、狭間には濃縮された緑の森……。
夏短く冬が厳しい地。
コハクが「そんなに?」とたずねたら、オウランは笑いながらこう言った。
「夏はともかく冬はね。ちょいと吹雪いたとおもったら、ひと晩で身の丈を超えるほどに雪が降り積もり、滝の水も森の木々も、なにもかもが凍りついちまう。ひどいときには海までもが氷に埋め尽くされることもある」
お世辞にも住みよい土地ではない。
だがそれでも獣のみならず人間の里もある。
もとは猫の額ほどの土地を耕し、漁で細々と食つなぐだけの寒村であったのだが、繭玉山にて良質な鉱石が採れることがわかってからは、それを求める商人やら流しの鍛冶師らが訪れるようになり、うちのいくらかが住み着くようになったおかげで、どうにか里の体裁を整えている。
「その里の人たちが、オウランを『犬神さま』と崇めているんだね」
「うーん、まぁ、そうなんだが……、より正確には、里に出入りしている鍛冶師たちかな」
「鍛冶師って鉄の剣とか槍を打つ人たちのことでしょう。それがどうして」
「聞きかじった話じゃあ、なんでも鍛冶には火が必要で、その火を司る神さまってのがオオカミの姿をしているとかなんとか……、っと、おしゃべりはしまいだ。連中がやってきた。コハクはどこか適当なところに隠れてな」
「わかった」
オウランにうながされ、岩の上からひらりと降りてすぐさま物陰に身を潜める山狗の子。
それに前後して、山道をガラガラと車輪を鳴らしながら、荷車をひいてくる人の一行の姿があらわれた。
◇
オウランとコハクがいたのは、繭玉山の麓から少し登ったところにある犬神の社と呼ばれる場所。
とはいっても社殿などの建物はなく、ひらけたところに巨岩がぽつんとひとつ横たわっており、これにしめ縄飾りが施されているだけ。その巨岩を犬神岩という。
この巨岩は犬神の化身したモノにて、もしもこれを傷つけたり、動かそうとすれば、ただちに祟りに見舞われるという。
過去には宴席のさなかにしたたかに酔った若者が、度胸試しと称してノミと杭を持ち出し、周囲が止めるのも聞かずに、ひとり夜の犬神岩へと向かったものの、いくら待てども若者が帰ってこない。だからみなは「おおかた酔っ払って寝ているのではないのか」と考えて、朝になって向かってみたら、首だけの変わり果てた姿となった若者が……。
ほかにもこんな話がある。
新たに城を築くので、石垣の要石を探していたどこぞの王が、犬神岩のウワサを聞きつけて「とってこい」と旗下の者に命じた。
しかし肝心の犬神岩は、どれだけ力自慢の者らが大勢で束になってかかっても、ビクともしなかった。いっこうに作業が進まないばかりか、じきに体調を崩す者が続出して中断を余儀なくされる。
これに激怒した王が「おのれ、こしゃくなっ!」とみずから軍勢をひきいて、社へと向かうもその途上のことであった。
ふいに空に暗雲が垂れこめたかとおもえば、雷鳴が轟き、天より走った稲光、王の身が閃光に包まれる。王は真っ黒に焦げ、絶命した。
たまさかその場面を近くで目撃していた者は「イナヅマの中にオオカミがいた」と震えながらに証言したという。
◇
犬神岩の上にて悠然と尻尾を上下させている白狼の姿を目にして、はっと顔を伏せたのは荷車の一行。
無言のままに、静々と祭壇を設けては、そこに積んできた荷を丁寧に並べていく。
そしてすべての積み荷を降ろし終わったら、一礼ののちにそそくさと退散していった。
今日は犬神さまに供物を捧げる日。
べつにオウランがわざわざ姿をみせずとも、里人らが勝手にやって来ては勝手に置いていく。供物はきちんと届けられる。
だが、こうやって御尊顔を拝ましてやると、次の供物の量が増える。
ようやく出歩けるまでに回復したコハク。
とはいえ本復にはまだ至っていない。肉体的な損傷はさほどではないが、心に受けた傷がおもいのほかに深い。崩れた調子を戻すにはいましばらくかかるだろう。
それにはしっかり食べて、しっかり休んで、適度に身体を動かして、なるたけ心穏やかに過ごすしかない。
というわけで、食べ物はいくらあっても困らない。
だから今回、オウランは犬神の社に出向くことにした次第であった。
「もういいぞ、コハク」
完全に人間たちの気配が消えたところでオウランより呼ばれて、山狗の子が物陰よりひょっこり姿をみせるなり、山と積まれた供物を前にして目をぱちくり。
魚の干物や肉の燻製など乾物類を中心に、畑で採れたであろう芋、干し柿、餅、木の実などがずらり。
「なるほど、これだけいっぱいもらえたら、そりゃあ狩りをする必要もなくなるか」とコハク。
「だろう? とはいえ生の血肉はないから、どうしても食べたくなった時には自分で狩るけどね。でも慣れると魚の干物もぞんがい悪くないよ」とはオウラン。
二頭はさっそくもらった供物を、寝起きしている洞穴へとせっせと運び込む作業にとりかかった。
ただしすべては運ばない。一部はあえて残し、山の仲間たちにおすそわけ。
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