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その六十九 犬神オウラン
しおりを挟むうつらうつら、起きては微睡むをくり返していたコハク。
三日目の朝、ずっとにじんでぼやけていた意識が突如として覚醒する。ふわふわしていた魂が肉体という器にかちりとはまり込んだ。それとともに戻る全身の感覚。
するとすぐ近くに獣の気配を感じた。コハクはカッと瞼を開けるなりいきなり跳ね起き、飛び退る。
だが、動けたのはそこまでであった。
ふんばりがまるできかず、ガクリと膝をついて崩れてしまう。しかしそれも無理からぬこと、なにせ暗黒の地下水脈に翻弄されたあげくに、海へと排出されて磯へと流れ着いてからも、ずっと寝込んでいたのだから。
それでもなおコハクが相手をねめつけて「グルルルル」と低い唸り声を発していたのは、山狗としての矜持から。
そんなコハクを呆れ顔で見ていたのは一頭のオオカミ。
大きい。
大人の山狗に匹敵するほどもあろうか。だが何よりもコハクの目を引いたのはその毛の色。山頂にて真夏の暑さにも負けることなく、ずっと残っている雪のような色。揺るがぬ白の奥にほんのり青さが宿る。きれいだけど、どこか他者を拒絶するような孤高の色。
身体の立派さといい、その体毛の色といい、こんなオオカミをコハクは知らない。少なくとも紀伊国の周辺や湖国では見かけたことがない。それでもひと目でオオカミだとわかったのは、独特の荒々しい雰囲気がオオカミのそれであったから。
白毛の大オオカミが言った。
「おやおや、命の恩人に向かってずいぶんなご挨拶だね。まぁ、いいさ。あたいの名はオウラン。おまえ、名前は?」
「……コハク」
「コハクか。あんたはこの近くの浜の磯に打ち上げられていたんだよ。それをあたいが拾った」
「浜? 磯? ということは、ここは湖じゃなくて海辺?」
「そういうこった。で、自分でもわかっているとはおもうけど、長いこと伏せっていたせいで、すっかり足腰が萎えてしまっている。身体のあちこちに傷も負っている。だからもうしばらくは辛抱して養生するこったね」
面と向かって言われて自覚したとたんに、ドッと全身が倦怠感に包まれてコハクはその場に伏せてしまう。すると腹の下にほんのり温もりを感じて、猛烈な眠気に襲われた。
「温かいだろう? ここは湯が湧いてる地で、付近に住むものらが身体を休めにくる場所さ。ここでは一切の争いが禁じられている。だから安心してお休み、コハク」
オウランの声を子守歌がわりにして、山狗の子はふたたび目を閉じた。
◇
寝て、起きて、食べてはまた休む。
コハクが目を覚ますと、いつも近くにオウランの姿があった。
食べ物を運んでくれたり、傷を舐めてくれたり、毛づくろいをしてくれたり……。まるで母親のように、なにくれとなく世話を焼いてもらっているうちに、いつしかコハクの警戒心もすっかり失せていた。
日が経つほどにコハクも次第に力を取り戻しては、起きている時間が長くなっていく。
そうなれば自然と言葉を交わす機会も増えて、ぽつぽつと互いのことを口にしだすコハクとオウラン。
会話を重ねるうちにわかったのは、オウランの目の具合があまりよくないことと、彼女が遠い異国の出身だということ。
彼女はこの海を超えたずっともっと先にある広大な陸地の草原に住んでいた、大陸オオカミ。かつては大勢の仲間たちと群れて暮らしていたという。
それがひとり、ここに暮らしているのかということについては、言葉を濁されてしまったのでわからない。目は漂流中に痛めたのがもとで、いまでは半盲状態となってしまったと言っていた。とはいえさして不自由は感じていない。耳や鼻は健在だし、目が不自由になった分だけ他の感覚が研ぎすまされて、かえって調子がいいぐらいとも。
「それにね」とオウランはにやり。「ここに居ついてからは、あまりムキになって狩りをする必要もなくてね」
遠い異国の白狼。
獣にとっては大きなオオカミにすぎない存在も、ヒトの目にはかなり奇異に映るらしく、立派な体躯とも重なって、いつの頃からか地元の信仰の対象に祀りあげられるようになっていた。
「このあたいをカミサマ、犬神さまと崇めて拝んでは、定期的に供物を捧げてくれるんだから、笑っちまうよね。人間は嫌いだが、連中が運んでくる喰い物は悪くない」
カカカと愉快そうに牙を打ち鳴らすオウラン。
だがその横顔に浮かんでいたのは自虐を含んだ笑み。
何が彼女にそんな表情をさせているのか。コハクはとても気になったものの、発しかけた問いかけの言葉をぐっと呑み込む。いくら気心が知れてきたとはいえ、まだ早い。いまはまだ踏み込んではいけないと感じたから。
コハクも同じ。自分が禍躬狩りの相棒として育てられた山狗であるとは、ざっと話したものの、忠吾のことについては語れずにいる。それを口にしたとたんに、こらえている感情が堰を切ってあふれそうで怖かったからだ。
オウランの中にも触れられたくない部分がある。
コハクの中にもさらしたくない部分がある。
だからいましばらくはこのままで……。
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