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その六十四 堰堤の戦い 燐焔

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 負傷した弥五郎を背に乗せ、この場から去ろうとする山狗のビゼン。
 これを逃がすまいと執拗に狙う禍躬シャクドウ。
 させじと正孝とコハクが間に入っては奮闘する。

 禍躬の黒爪と山狗の牙と人間の槍と。

 禍躬が一歩を踏み出す。
 ただそれだけでズンと地響きがして、固いはずの石床が砕けた。怒りのままに剛腕をふるえば、たちまち破壊が周囲を席捲する。

 山狗の四肢が躍動し、その身が疾風と化す。
 緩急自在にて、姿を捉えたとおもえば、それは残像。駆け抜けざまに顎が上下し、そのたびに血肉が抉られ敵の身が喰い千切られる。

 人間の槍が轟と唸る。
 砕けた愛槍にかわって正孝が手にしているのは突火槍。これは槍の穂先の付け根に火薬が仕込まれた得物。相手へと突き刺したひょうしに爆発させ、傷口を広げつつ体内深くへと刃物を送り込むというシロモノ。禍躬狩りの道具がうちのひとつ。
 これをどうにか口腔内に突っ込んで必殺の攻撃を狙う正孝ではあったが、シャクドウも警戒しており無闇に口を開くことはない。

 三者が入り乱れては激しい応酬が展開。血風が舞い、彼らが暴れるほどに堰堤の軋みが拡大してゆく。
 凄まじい混戦のさなか、これにまぎれて探索方の者が紐つきの焙烙玉を次々と放っては、確実にシャクドウの身に絡ませていく。探索方のうちの一人はすでに水門を解放すべく、そちらへと向かっていた。
 その頃忠吾は足下の状態をつぶさに検分しては、堰堤のあちらこちらに生じている亀裂や穴などの中から、これはという箇所に焙烙玉や予備の薬莢などを仕込み、着々と堰を切るための爆破準備を整えていた。

  ◇

 カンっ! カンっ! カンっ! カンっ! カンっ!

 狂ったように打ち鳴らされる半鐘。
 水門が開かれる合図。
 ドンと堰堤全体が突きあげられたかのような衝撃。これは三つの放流口が解放されたことにより生じたもの。とたんに轟々と流れ出す青眼湖の水たち。中空にて三つの滝がひとつに寄り集まっては、一本の太い瀑布となり、遥か地上へと落ちていく。
 我先にと出口に殺到する大量の水により、堰堤の軋みがいっそうひどくなり、悲鳴にも似た音をあげた。

 男たちは作戦がいよいよ最終段階へと移行したことを悟る。
 知らぬは禍躬シャクドウばかり。奴はキョロキョロと困惑を隠せない。
 一瞬の隙をついて閃いたのは正孝の槍。槍が弧を描く。天へとのびていた穂先が地へと。ズブリと刺し貫いたのは、シャクドウの右うしろ足の甲の部分。
 全体重をのせ、ありったけの膂力を込めて放たれた刺突。骨と骨の間を抜けた切っ先が、そのまま足裏へと貫通し、直下にあった石床の亀裂へと差し込まれる形にて、ようやく止まる。
 これにより地面に縫い留められる格好となった禍躬シャクドウ。一時的に身動きを封じることに成功した。

 堰を切る好機到来! あとは火を放つのみ。

 ゆえにすぐさま離脱をはかる正孝。だがその身へとのびた毛むくじゃらの腕が、逃亡を許さない。
 シャクドウに右腕を掴まれ、正孝は強引に引き戻された。正孝はどうにか逃れようともがくもビクともしない。圧倒的膂力を誇る禍躬を前にして人の身はあまりにも非力で脆い。いかに鍛え上げた若き武官とて例外ではない。
 ギチリ、ボキリと音がした。
 たまらず正孝は苦悶の声を漏らす。
 助けようとコハクがシャクドウの腕に噛みつくも、シャクドウは正孝を放そうとしない。

 そんな正孝を救ったのはひと筋の蒼い炎。

 最初の狙撃により右目を失っていたシャクドウ。その死角より素早く這い寄っていた忠吾。まんまと懐へと潜り込んだところで、腰のうしろに差していた鞘より抜いたのは一本の刃。小刀というよりも鉈に近い形状にて、ずんぐりとしている。特徴的なのがその刃部分。鋭利に砥がれてはおらず、ぎざぎざの鋸のようになっている。
 燐焔刀と呼ばれる禍躬狩りの道具のうちのひとつ。
 切れ味はいまいちだが、刃こぼれしにくく、なおかつギザギザの刃の隙間に燐石の粉末を練ったモノを詰めることによって、鞘走りにより一時的にだが刀身が蒼い炎をまとう。これを使えば野営のときに火起こしがとても楽になる。

 突如として眼前に発生した蒼い炎。
 手首に走った痛みに驚いたシャクドウが、ついに正孝を手放すのとほぼ同時に、忠吾は若者の身をおもいきり蹴飛ばし遠ざけた。いささか乱暴なれども隻腕ゆえにしようがない。
 これにより正孝はからくも窮地を脱する。
 だがしかし、そのせいで今度は忠吾の腰がむんずとシャクドウに掴まれることになってしまった! それも片腕ではなくて両腕にてがっちりと挟み込むようにして。
 たちまち万力のごとく締めあげられ、苦しげに「がはっ」と息を吐く忠吾。ひょうしに口元より血がひと筋、つーと流れ落ちる。
 主人を助おうと懸命に牙を突き立て爪を振るう山狗の子。その姿を見つめながら忠吾は相棒の名を呼び命じる。

「コハク、正孝殿を……頼……む」

 山狗にとって主人である禍躬狩りの命令は絶対。
 ゆえにうしろ髪ひかれながらも、コハクはしぶしぶこの指示に従い正孝のもとへと向かう。傷ついた正孝を安全なところにまで運んだら、すぐさまとって返すつもり。
 健気な山狗の子へと向ける忠吾の眼差しはとても穏やかなもの。
 禍躬に囚われた忠吾は、我が身がじょじょに壊されていくのをどこか他人事のように感じていた。
 朦朧となる意識の中、老禍躬狩りはゆっくりと視線を彷徨わせる。祝い山の頂上から望める雄壮な竜背峰の尾根を目にしたところで、クスリと笑みを零しおもむろに振りあげたのは、手の中にあった燐焔刀。
 これを力一杯に投げ放つ。狙うのはシャクドウの身を縫い留めている突火槍の端である石突部分。

 カチリ。

 石突と刃がぶつかり、ふたたび燐焔刀が燃える。
 ひょうしに突火槍が作動して穂先が射出され、シャクドウが悲鳴をあげた。
 一方ではじかれた燐焔刀は蒼炎をまとったまま付近の亀裂へと滑り落ちる。内部に仕込まれた薬莢のひとつに火の粉が触れた瞬間、カッと光が生じる。それが次々と連鎖しては、どんどんと大きくなっていき、ついには一帯が光に包まれた。


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