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その六十 堰堤の戦い 背水の陣
しおりを挟むどういった理屈かまではわらかない。だが、うしろの目を持つ禍躬シャクドウに背後からの攻撃は届かない。正面は言わずもがな、狙えるとしたら側面……。
「忠吾たちならば、きっと自分の意図に気がついてくれるはず」
仲間を信じ、あえて己を死地へと置いた緒野正孝。
「コハク、ビゼン」
正孝から名前を呼ばれた二頭が足を止める。円陣が解かれ、かわりにシャクドウの背後につく。
これにより前後を挟まれる格好となった禍躬シャクドウ。二頭と一人、双方を見比べ、選んだのは人間の方。
狩りにおいてもっとも弱い者を狙う。それが野生の常識。
二頭の山狗よりも正孝をよほど与し易いと判断したのだ。
◇
四つ足にてのそりのそり、正孝に近づく赤銅色の巨躯。
両者の距離が一丈を切ったところでシャクドウが立ち上がった。にぃいと口角が歪み、より獰猛な表情となり、真紅の瞳が獲物を見下ろす。
ぶぅんと振り下ろされる右の前足。六本の黒爪が袈裟懸けに宙を走る。
木を薙ぎ倒し、岩を抉って砕き、鉄の盾や甲冑をも切り裂く剛腕。
膨大な数の命を屠ってきた必殺の凶撃。
けれども当たれば即死するであろうそれを、なんと正孝はわずかに半身を下げたのみの動作にてかわす。
眼前、鼻先すぐのところを絶対の死が通り過ぎていく。これを若き武官は冷静なまなざしにて見送る。
まさか避けられるとは……、シャクドウはきょとん。
瞬間、足下より閃いたのは槍の穂先。地を這うように飛んでいたツバメが身を翻し、大空へと舞い上がるかのごとく、切っ先が跳ねた。
槍が狙ったのは無防備にさらされているシャクドウの顔面、右目のあたり。真紅の目玉を裂かんとした一撃。残念ながらそれはかなわなかったが、わずかながらも瞼を傷つけることには成功する。
おもわぬ反撃。とはいえ、ほんのかすり傷。それこそ皮一枚を切ったかどうか。血すらも流れてはいない。
しかしこれにより禍躬は怒りを再燃させた。先ほどよりもいっそう強く激しく。
猛るシャクドウ、両腕をめったやたらに振っては正孝を切り刻まんとする。
なのに当たらない。
いや、当たってはいる。
だが信じられないことに攻撃のことごとくを、正孝の槍が巧みに受け流していたのである。
長柄がしなり、ときに穂先から火花が散る。石突による跳ね上げ、打ち下ろし、薙ぎ、払い……。
槍が踊る。手の中で円舞をしているかのよう。回る廻る回る。止まらない。弧を描き、宙にいくつもの円が産まれては、消えていく。ときに雷光のごとき刺突が突き抜けては、刃が旋回、ふたたび新たな輪を紡ぐ。
負けじと禍躬シャクドウもひたすら爪を振るい続けている。
他者を圧倒する膂力、爪の先に濃縮された破壊、禍躬を中心にして暴虐の嵐が吹き荒れる。
苛烈な嵐の中に踏みとどまり続ける正孝、一歩も引かず。鍛えた肉体、練り上げた武芸、身に宿りしすべてを駆使して、若き武官が禍躬シャクドウを迎え撃つ。
剛と柔、攻と守、殺意と矜持、意地と意地、獣が成った異形とヒトと。
幾多の試練を経て迎えた極限ともいえる状況。
それが若き武官の槍を更なる領域へと高めようとしていた。
「おぉぉおおおぉぉぉぉぉぉぉっ」
緒野正孝が吠える。
「がぁぁあああああああああぁっ」
禍躬シャクドウも吠え返す。
これに混じってギィンギィンと鳴り響くのは、刃と爪が激しくぶつかり、削り合う音。目にも止まらぬ衝突が周囲の空気をも焦がす。
矮小な身が巨躯を誇る禍躬と単体にて渡り合う。
それはシャクドウを驚愕せしめ、戦いの行方を見守る者らを驚嘆せしめ、人間という生き物が秘める可能性を示していた。
ひょっとしたらヒトが禍躬を喰らうのか?
そんなことが本当にあり得るのか?
とてつもないことを期待させるほどの槍働き。
だがしかし……。
ビキッ! ぱきっ! ぴしっ!
イヤな音がした。
はっと我に返った正孝。かつてないほどの一体感に包まれていた陶酔の時間は、唐突に終わりを告げる。
ふっと手の中が軽くなる。ひょうしに愛槍がばらばらに砕けた。
緒野家伝来の槍がついに限界を迎える。
散乱する破片越しに、禍躬シャクドウを見た正孝。その顔はまるで笑っているようであった。ただし、けっして互いの健闘をたたえるようなものではない。「ようやく生意気なこいつを殺せる」といった嘲り混じりの嬉々としたもの。
この時、禍躬シャクドウの目には緒野正孝という男しか映っていなかった。すべての意識が、神経が、目の前の男のみに集中していた。これを殺し、喰らうことのみが頭の中を占めていた。そしてまさに正孝を爪で抉らんとした刹那のこと。
ダァアァァァーン! タァアァァァーンッ!
二つの轟音が堰堤に鳴り響く。
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