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その四十七 うしろの目
しおりを挟む乱立するブナの木々たち。その合間を縫って駆ける山狗のビゼン。
躍動する四肢。しなやかに身体が動くたびに体毛が波打つ。尾の先を風になびかせては、ひと足ごとに加速。飛ぶように疾駆する。
ビゼンが大地に刻んだ跡をなぞるようにして続くのは、火筒を構えた禍躬狩りの弥五郎。
ふいに青年の視界がひらけた。林を抜けたのだ。
けれどもそこで弥五郎が目にしたのは、停止しているビゼンの姿。山狗は戸惑っている。
あるはずのものがなかったからだ。
橋がない。落ちている……、ただし自然にではない。
意図的に落とされたのだ。
橋を落した相手は谷の向こうに続く林の中に見え隠れしている。
禍躬シャクドウ!
走ってはいない。悠然と歩いては遠ざかっていく。
ビゼンが主人の方をふり返り目で訴える。山狗の瞳が強く訴えていた。
「自分を行かせてくれ」と。
谷の幅はせいぜい四丈に届くまい。山狗の足ならば助走をつければ余裕で飛び越えられる。だが人の身である弥五郎の方はそうはいかない。いかに勇猛果敢な獣とて、単独で禍躬と当たるのはあまりにも無謀がすぎる。
一瞬の判断により、弥五郎はビゼンが谷を越えることを却下。
かわりに自身が谷の際に駆け寄り片膝をつく。
この局面で弥五郎が選んだのは狙撃。
木々の向こうにちらつく赤胴色の巨体。
奴が追跡者の存在に気がついているのかはわからない。けれども丸太橋を落としたことで、油断しているのは確か。その証拠に大きな背中が無防備にさらされている。
片膝をついたことで格段に安定感を増す火筒。
先端上部にある照星にて、まず狙ったのは背面の中央、ちょうど肩甲骨の間あたり。だが弥五郎はすぐに狙いをズラして、後頭部へと向けた。
相手はクマが成った禍躬。体毛豊かにて脂肪をたっぷり蓄えている。頑丈な骨や強靭な筋肉も備わっており、これらが障害となりかねない。このまま脳天を撃ち抜けたら楽なのだが、禍躬の頭蓋骨の硬さは尋常ではなく、岩や鉄のごとし。
ならばと首の付け根あたりを狙おうと弥五郎は考えた。そこならば倒せずとも行動不能へと追い込める。
身動きを封じてしまえば、あとはどうとでも料理できるはず。
ふぅーっ。
静かに息を吐く弥五郎。
あわてて引き金を絞らない。滾る熱はそのままに、己が内にある焦燥感を払拭し、好機が訪れるのをじっと待つ。
いざというときに待てる。これがなかなか難しい。この歳にてその術を習得している弥五郎は、将来有望な逸材なのはまず間違いない。
好機は、ブナの枝葉や幹に邪魔されることなく、なおかつ獲物がわずかながらにも首をあげる瞬間。
自分の鼓動に耳を傾け、衝動を制御しつつ、風を読む。それと同時に相手の歩幅や呼吸、律動、その他の一挙手一投足をつぶさに観察し、次にとる行動を予測する。
もの凄い密度で凝縮された刻。
すべてはまばたき数度の間の出来事であった。
そしてひと筋の道が拓ける。邪魔するものの一切が失せた刹那。
「禍躬シャクドウ、覚悟っ!」
三連式火筒が吠えた。
放たれた弾丸は真っ直ぐに飛翔し、正確無比に獲物の頭部へと吸い込まれていく。だが直後に驚愕したのは攻撃した側の弥五郎の方であった。
まさに玉が当たるという寸前のこと。
禍躬シャクドウがひょいと頭を下げて、これを軽々とかわしたのである。
「なっ! たまさかか? ならば」
間髪入れずに第二射。連射できることこそが弥五郎の火筒の最大の強み。
けれども次弾もやはりかわされる。今度は身ごと右へとひょいと傾ぐことで。
ばかりか、その回避行動を読んで放った続く第三射までもがゆらりと避けられた。
うしろをふり返る素振りを一切みせることもなくに、である。
「そんな、どうして……ありえない。奴には神通力でも宿っているというのか!」
三発すべて撃ち終わってしまい、新しい玉を装填するのも忘れて呆然となる弥五郎。
己が射撃の腕に絶対の自信があったればこそ、それをこともなげにいなされたことで受ける衝撃は大きかった。
そんな若き禍躬狩りを嘲笑うかのようにして、ひと吠えした禍躬シャクドウ。
ずんと気温が下がり大気が凍る。世界が震える。
この声をなんとあらわしたらいいだろうか。
大きな地震の前触れのように不気味な胎動を秘めたそれは、有無をいわせず耳にした者に絶望と死を連想させるもの。
禍躬シャクドウがおもむろに左腕をふるった。
一撃にてそばにあった太いブナの木があっさりへし折れた。
◇
かたわらに寄り添う山狗ビゼン。その温もりに弥五郎がはっと我に返ったとき、谷向こうに禍躬シャクドウの姿はなかった。
火筒で狙われたのにもかかわらず、こちらを一顧だにすることなく去ってしまった。
圧倒的存在感、見せつけられた力の片鱗、砕かれた自信、刻まれた恐怖……。
世界が震えたと感じていたのは誤り。ただしくは、震えていたのは己自身。
歯牙にもかけられなかった。
カッと弥五郎の顔が熱くなる。かつて味わったことのないほどの屈辱。それが皮肉にも若き禍躬狩りの屈した膝をふたたび奮い立たせることになる。
悔しさのあまり噛みしめた口元から垂れるひと筋の血。
火筒を杖代わりにして立ち上がった弥五郎は己の顔を拳で二三発殴ると、キッと谷向こうをにらむ。
「なんという屈辱、この恨み、けっして晴らさでおくべきか。禍躬シャクドウ……きさまは必ずやこの俺が仕留めてやる! そして絶対に後悔させてやる。この俺を見逃したことをっ」
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