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その四十六 足跡
しおりを挟む足跡を追う弥五郎と相棒のビゼン。
これにつき従うのは二名の探索方。ふたりともに女王の間諜組から派遣された熟練者にて、よく心得たもの。弥五郎たちの仕事の邪魔をせぬよう、余計な差しで口は挟まない。さりげなく周囲に気を配りながら、黙ってついてくる。
視界を埋め尽くすのは、真っ直ぐに天へとのびている雄々しいブナの木たち。
きめの細かい白い樹皮が美しい。幹太く、よく育っている。この林には肌艶のいい木々がそろっている。葉がやや大ぶりなことから、この地方の冬がおもいのほかに厳しいことがうかがえる。ブナは寒い地方ほど葉が大きくなるもの。おそらくは星鏡湖方面から吹く風のせいだろう。多分の冷気を含んだ風は、ときに樹木すらをも凍らせる。
とはいえそれはあくまで冬の話。
いまはその厳しさの欠片もない。
足下を埋める枯れ葉の茶、木々の白、葉の緑、それらの対比が絶妙にて、差し込む木漏れ日を受けてより鮮やかさを増している光景は、自然ならでは美。
とても心落ちつく穏やかな場所。
だというのにだ。ここには妙な緊張感が漂っている。あまりにも静か過ぎる。遠くに野鳥の声も聞こえない。ときおり風に揺れてこすれる枝葉の音までもが、どこかぎこちない。まるで林全体が息を潜めて、何者かが通り過ぎるのをじっと待っているかのよう。
足跡を追い奥へと踏み出してすぐに、弥五郎は林の異変に気がついていた。
若き禍躬狩りは三連式の火筒を手にし、いつでも放てるよう警戒を怠らない。
一見するとブナ林に禍躬シャクドウが身を伏せられそうな場所は見当たらない。けれども平らな地面の先に突如としてくぼ地が出現したり、緩やかな起伏が小丘のようになっていたりと、死角になっている地形がところどころに点在しているから油断できない。
いかに相棒の山狗が優秀だとて、それに頼り切りとなるのは危険。
はやる気持ちを抑えて、一行は慎重に進む。
◇
足跡のニオイをかいでいたビゼンがふいにやめて、顔をあげた。
山狗は前方をじっと見つめている。
その反応を受けて弥五郎がうしろに控えている探索方をふり返る。
「この先はどうなっている?」
「谷にて林が分断されています」
どうやらビゼンは谷を抜ける風を敏感に感じとっていた模様。地形の変化にいち早く気がついていたのだ。
ビゼンの背を優しく撫でながら弥五郎はさらにいくつか質問を重ねる。
「谷の幅と深さは?」
「幅はさほどでもありません。せいぜい三丈ほどかと。ですが深さは相当あります。たとえ身軽な者でも岩肌を伝って下まで降りるのは、かなり骨が折れるはず」
「向こうに渡るには?」
「ぐっと谷沿いを下って渓流の浅くなったところを渡るか、南の街道まで戻ってそちらを行くか、あとは上流域にいったところに橋があるのでそれを使えば」
ただし橋といっても立派な石橋や吊り橋などではなくて、地元の人間などが使うためにこしらえた粗末な丸太橋であるという。
話を聞いた弥五郎は足跡をにらみつつ思案ののち、急遽、進路を丸太橋の方へと変えた。
シャクドウは禍躬としては小柄な部類に入るとはいえ、重量はクマの比ではない。百あるいは二百貫をも越えるやも。
その巨躯でほとんど足跡を残さないことも驚きだが、さりとて危険を犯してまで脚まかせの谷越えをするとはおもえない。飛び越えるには何もかもが大きく重たすぎる。よほど切羽詰まった状況でもないかぎりは、まずやるまい。
相手は知恵が回る。となれば人が作った橋を利用して移動していたとて、なんら不思議ではない。
「皮肉なもんだな。人間たちがせっせと切り開いた道やかけた橋が、禍躬にとっては餌場へと通じているのだから」
そんな弥五郎のつぶやきは、カサリと鳴った木々のざわめきによりかき消された。
◇
丸太橋へと近づくほどに、先導するビゼンの雰囲気が明らかに変わってゆく。
目つきが険しくなり眼光鋭く、全身から気焔が立ち昇り、追う者から戦う者へと変貌していく雌の山狗。
山狗がここまで闘志を漲らせる相手はひとつしかない。
弥五郎も三連式火筒を素早く点検し、これを構えつつ、引き金に指をかける。
禍躬狩りと山狗が戦う姿勢をみせたので、ここまでずっとつき従っていた探索方のふたりは、そっと後方へ距離をとった。
ビゼンが鼻先にシワを寄せて、目尻を釣りあがらせる。ピンと立てた両耳は前方を向いており、木々を抜けた先にいるであろう相手の気配を探っている。一方でその身をおおう明るい茶色の毛並みは総毛立ち、何倍にも体が膨れあがっていた。
「ふしゅぅうぅぅぅぅぅ」
白い牙が整然と並ぶ口許。静かに吐かれた息までもが白い。
それだけ山狗の体温が上がっているということ。そして体内にて闘志が極限にまで高められているということ。
もうこれ以上は……というギリギリの頃合いを見計らい、弥五郎が叫ぶ。
「行けっ、ビゼン!」
合図とともに走り出した山狗。地面の枯れ葉を蹴り上げ、砂利を蹴り上げ、矢となり猛然と突き進む。
これを追うようにして弥五郎も駆け出した。
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