上 下
34 / 154

その三十四 終幕

しおりを挟む
 
 眼下に迫るイッカクの大口。
 歯地獄を前にして、正孝は喉の奥めがけて槍を突き入れようとするも、そのとき「ウォン」とひと吠えしたのはコハク。
 イッカクと正孝、ともにその声を耳にし、ほぼ同時に波間に浮かぶ山狗の子をちらり一瞥。
 直後に両者がとった行動は対照的であった。
 イッカクは「その手はもう喰わぬ」とばかりに無視する。てっきり先と同じで声による攪乱であると判断したのだ。
 しかし正孝は即座に反応する。手にした槍の向きをおもむろに変えた。突き入れるのではなくて、横にして巨大鮫の口が閉じられないよう、つっかえ棒としたのである。

 鋭い穂先と固い石突。長柄の部分は樫の木を削りだして加工された物。丈夫なだけでなく程よくしなるので、折れにくい性質を持つ。
 もしも考えなしに口を閉じれば、刃にてみずからを傷つけることになってしまう。
 かといってずっと大きく口を開け続けるのは、おもいのほかに苦痛をともなう。
 おもわぬ反撃に動揺したのか、イッカクがやや慌てた素振りをみせる。

 一方で愛槍を支えとし辛うじて落下をまぬがれた正孝。
 すぐさま逆上がりの要領にて身を持ちあげると、そのまま柄を足場とし危険な口腔内より脱出をはかる。
 両足に力を込めて思いっ切り斜め上空へと飛んだ正孝。
 させじとこれを追うイッカク。
 不安定な足場による跳躍は十全とはいかない。そのせいで正孝の身は三尺ほど高く飛んだのみ。けれども強靭な尾びれにてしっかりと海面を蹴れるイッカクは、これを遥かに上回る跳躍をみせる。
 結果として、逃げた獲物はふたたび自分の口の中へと出戻ることになった。
 イッカクはこのまま正孝を水中へと引きずり込んでは、邪魔なつっかえ棒もろとも始末するつもりなのだろう。

 どうにか槍の柄にぶら下がってはいるものの、落水すれば一巻の終わり。
 その身はまごうことなき死地にある。
 なのに正孝は笑っていた。
 正孝は言った。

「それがしを憎むあまり、釣られて思い切り飛んだなイッカク」

 正孝は闇雲に逃げたのではなかった。彼は執念深い相手が必ず自分を追ってくるものと考え、とある方へと向けて飛んでいたのである。
 その行動が獲物に喰らいつかんとするイッカクの身を海上へと誘い出し、なおかつ鮫首を大きくのけ反らせ、もっとも無防備に腹部をさらさせることになる。
 なんのためにかなんてことは、言わずもがなであろう。

 直後に雷鳴にも似た激しい音が轟く。
 いつのまにか停止していた小船より放たれし火筒。
 狙いすました忠吾の一撃。発射された鉄の玉が鮫肌に穴を穿つ。命中した箇所は胸びれの根元のところ。
 その奥には心の臓がある。
 図体が大きく、高い身体能力を誇るがゆえに、心臓もまた大きいイッカク。
 とっさに身をよじって致命傷を回避しようとするも、それはかなわない。

 すべての潮騒をかき消すほどの絶叫!

 かくして暴虐の限りを尽くした海の王との死闘はついに幕をおろした。

  ◇

 イッカクとその旗下である十一匹の鮫らの骸を牽引し、凱旋の途につく紀美水軍の船団。
 碧の組の母船の甲板に忠吾、コハク、正孝らの姿はあった。
 伊瑠もいっしょに回収されたのだが、彼女は母親にて組頭でもある瑠璃からしこたま怒られ、現在は隅っこにて正座をさせられ猛反省を促されている。

 半べそをかいている伊瑠を尻目に、今回、存分に槍の誉れを得た正孝は、塩水に浸かった愛槍の手入れに余念がない。
 忠吾もまた潮風に吹かれた火筒の点検をしている。
 かたわらのコハクは大あくびにて寝そべるばかり。海に入ったのでやたらとベタつく毛。これは陸に戻っから川で行水でもするしかないので、毛づくろいを早々に諦めた。

 ふと槍の穂先を磨いていた正孝が顔をあげ、水平線の彼方へと沈みかけている夕陽に目を細めながらつぶやく。

「禍躬ヤマナギはあのイッカクよりもずっと大きくて、もっと強かったのですよね」

 青年の父親である緒野景親は、かの戦いで命を落とした。
 多くの禍躬狩りや兵士たちが犠牲になり、忠吾も当時の相棒であった山狗の夫婦であるソウとアサヒのみならず、自身の左腕をも失う。傷口には癒えることのない灼熱の呪いをも受けた。
 正孝の言葉に忠吾は「ああ」と小さくうなづく。

「ヤマナギは猪が成った禍躬で、とても大きかった。それこそ山かと錯覚するほどに。勇猛な軍勢が束になってもかなわないほどに強かった」
「そんな相手に父上は……」

 言葉を詰まらせる正孝。
 自身が強い敵と対峙して、どうにか生を拾ったからこそわかる。いやでも実感させられる。より強大無比な禍躬と戦うということ。そのたいへんさを、その恐ろしさを。
 この先、湖国にて待ち受ける敵は、その地を統べる女王が外部に助力を求めるほどの相手。戦いはより過酷に、より凄惨なものとなるは必定。
 いまさらながら小刻みに震えている己の指先。それを無理にでも抑えこもうと正孝は固く拳を握りしめ言った。

「父上といい、忠吾殿といい本当にすごい。それがしなんぞはまだまだ」

 若き武官は、ひとつの勝利に奢ることなくさらなる精進を誓う。
 そんな青年の姿を忠吾は眩しそうに眺めていた。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

こちら第二編集部!

月芝
児童書・童話
かつては全国でも有数の生徒数を誇ったマンモス小学校も、 いまや少子化の波に押されて、かつての勢いはない。 生徒数も全盛期の三分の一にまで減ってしまった。 そんな小学校には、ふたつの校内新聞がある。 第一編集部が発行している「パンダ通信」 第二編集部が発行している「エリマキトカゲ通信」 片やカジュアルでおしゃれで今時のトレンドにも敏感にて、 主に女生徒たちから絶大な支持をえている。 片や手堅い紙面造りが仇となり、保護者らと一部のマニアには 熱烈に支持されているものの、もはや風前の灯……。 編集部の規模、人員、発行部数も人気も雲泥の差にて、このままでは廃刊もありうる。 この危機的状況を打破すべく、第二編集部は起死回生の企画を立ち上げた。 それは―― 廃刊の危機を回避すべく、立ち上がった弱小第二編集部の面々。 これは企画を押しつけ……げふんげふん、もといまかされた女子部員たちが、 取材絡みでちょっと不思議なことを体験する物語である。

お姫様の願い事

月詠世理
児童書・童話
赤子が生まれた時に母親は亡くなってしまった。赤子は実の父親から嫌われてしまう。そのため、赤子は血の繋がらない女に育てられた。 決められた期限は十年。十歳になった女の子は母親代わりに連れられて城に行くことになった。女の子の実の父親のもとへ——。女の子はさいごに何を願うのだろうか。

【完結】カミサマの言う通り

みなづきよつば
児童書・童話
どこかで見かけた助言。 『初心者がRPGをつくる時は、 最初から壮大な物語をつくろうとせず、 まず薬草を取って戻ってくるという物語からはじめなさい』 なるほど…… ということで、『薬草を取って戻ってくる』小説です!  もちろん、それだけじゃないですよ!! ※※※ 完結しました! よかったら、 あとがきは近況ボードをご覧ください。 *** 第2回きずな児童書大賞へのエントリー作品です。 投票よろしくお願いします! *** <あらすじ> 十三歳の少年と少女、サカキとカエデ。 ある日ふたりは、村で流行っている熱病の薬となる木の葉をとりにいくように、 カミサマから命を受けた。 道中、自称妖精のルーナと出会い、旅を進めていく。 はたして、ふたりは薬草を手に入れられるのか……? *** ご意見・ご感想お待ちしてます!

転校生はおにぎり王子 〜恋の悩みもいっちょあがり!~

成木沢ヨウ
児童書・童話
「六原さん、好きなおにぎりの具は何?」 ある日、小学五年生の六原 サヤ(ろくはら さや)のクラスに、北海道からの転校生、若佐 隼斗(わかさ はやと)がやって来た。 隼斗の実家は北海道で有名なお寿司屋さんで、お店の東京進出を機に家族で引っ越してきたらしい。 お寿司屋さんの息子なのに、何故か隼斗はおにぎりを握るのが大好き。 隼斗が作るおにぎりには人の心を動かす力があり、クラスで起こる問題(特に恋愛関係)をおにぎりで解決していくのだった。 ひょんなことから、サヤは隼斗のアシスタントとして、一緒に”最高のおにぎり”を追い求めるようになり……。 いろんなおにぎりが登場する、笑って泣けるラブコメディ!

完結《フラワーランド》ありさんと読めそうで読めない漢字 

Ari
児童書・童話
スマホで調べれば簡単な世の中だけど、スマホがないと漢字が読めない書けないが増えていませんか? ボケ防止の暇つぶしに、おばあちゃん。おじいちゃん。お子さんなどなど。みんなでどうぞ! 読めたら楽しいを集めてみました!

天使くん、その羽は使えません

またり鈴春
児童書・童話
見た目が綺麗な男の子が、初対面で晴衣(せい)を見るやいなや、「君の命はあと半年だよ」と余命を告げる。 その言葉に対し晴衣は「知ってるよ」と笑顔で答えた。 実はこの男の子は、晴衣の魂を引取りに来た天使だった。 魂を引き取る日まで晴衣と同居する事になった天使は、 晴衣がバドミントン部に尽力する姿を何度も見る。 「こんな羽を追いかけて何が楽しいの」 「しんどいから辞めたいって何度も思ったよ。 だけど不思議なことにね、」 どんな時だって、吸い込まれるように 目の前の羽に足を伸ばしちゃうんだよ 「……ふぅん?」 晴衣の気持ちを理解する日は来ない、と。 天使思っていた、はずだった―― \無表情天使と、儚くも強い少女の物語/

普通じゃない世界

鳥柄ささみ
児童書・童話
リュウ、ヒナ、ヨシは同じクラスの仲良し3人組。 ヤンチャで運動神経がいいリュウに、優等生ぶってるけどおてんばなところもあるヒナ、そして成績優秀だけど運動苦手なヨシ。 もうすぐ1学期も終わるかというある日、とある噂を聞いたとヒナが教えてくれる。 その噂とは、神社の裏手にある水たまりには年中氷が張っていて、そこから異世界に行けるというもの。 それぞれ好奇心のままその氷の上に乗ると、突然氷が割れて3人は異世界へ真っ逆さまに落ちてしまったのだった。 ※カクヨムにも掲載中

両親大好きっ子平民聖女様は、モフモフ聖獣様と一緒に出稼ぎライフに勤しんでいます

井藤 美樹
児童書・童話
 私の両親はお人好しなの。それも、超が付くほどのお人好し。  ここだけの話、生まれたての赤ちゃんよりもピュアな存在だと、私は内心思ってるほどなの。少なくとも、六歳の私よりもピュアなのは間違いないわ。  なので、すぐ人にだまされる。  でもね、そんな両親が大好きなの。とってもね。  だから、私が防波堤になるしかないよね、必然的に。生まれてくる妹弟のためにね。お姉ちゃん頑張ります。  でもまさか、こんなことになるなんて思いもしなかったよ。  こんな私が〈聖女〉なんて。絶対間違いだよね。教会の偉い人たちは間違いないって言ってるし、すっごく可愛いモフモフに懐かれるし、どうしよう。  えっ!? 聖女って給料が出るの!? なら、なります!! 頑張ります!!  両親大好きっ子平民聖女様と白いモフモフ聖獣様との出稼ぎライフ、ここに開幕です!!

処理中です...